1: 預言
今日の箇所は、イエス様の誕生、クリスマスの出来事のあとの場面になります。イエス様は「インマヌエル」「神は我々と共におられる」という方として、この世に来られました。わたしたちは、12月にクリスマスを迎え、救い主の誕生を共に喜んだのです。クリスマスにおいて、わたしたちは神様の愛、キリストをいただいたのです。新しい年を迎えたこれからも、日々キリストに出会い、神様に向かって歩き続けていきたいと思います。
今日の箇所は、イエス・キリストの誕生の、そのあとの話となります。イエス様の誕生のあと、ヨセフとマリアはイエス様と共にエジプトに逃げだしました。そして、このことを知ったヘロデ王は怒り、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。そしてまたヘロデが死んだあとに、イエス様はガリラヤ地方のナザレに帰ってきたのです。
今日の箇所では3つの「預言の実現」の出来事が記されています。今日は、まず、預言というものについて考えたいと思います。「よげん」という言葉だけを聞いた時に、皆さんはどのような言葉を思い描くでしょうか。「よげん」の一つには「予め(あらかじめ)」の「よ」に、「言葉」と書く「予言」という言葉があります。この「予言」は、未来のことを予想して考える言葉として使う言葉です。
この「予言」は、もはや古い話となってしまったのかもしれませんが、ノストラダムスの大予言という予言がありましたが、1999年の7月に世界が破滅するというような言葉がありました。あれからすでに17年、すでに2017年を迎えた今では、何の話だったのだろうとも思います。この場合に言う言葉「予言」は、未来の事柄を言い当てる、そのような言葉です。
少し話がそれるのですが「天気予報」の「予」も同じ字になります。調べてみると、天気予報は合理的説明ができるので「予言」ではないと書いてありました。天気予報のどこが合理的なのか・・・晴れ時々くもりで、降水確率30パーセントと書いてあったり、また気象庁の信用性はA、B、Cに分かれており、Cの場合は「わかりません」と言っているようなものです。幼稚園の遠足などの天気を調べていると、週間予報はどんどん変わりますし、天気予報も「予言」みたいなもの、ほとんど当てずっぽみたいだと、感じます。
話を戻しますが・・・今日の聖書において語る「よげん」というのは、「あずかる」に「言葉」で「預言」と書く言葉です。それは神様から「預かった」「言葉」を意味するのです。つまり、何の根拠もなく未来のことを言い当てるのではなく、また、人間が自分で考え出したのでもなく、神様からいただいた言葉。天地創造の、命の造り主であり、今もそのすべての命を養い、導かれる神様の言葉。それが、聖書でいうところの「預言」です。 人間の考える何の根拠もない「予言」でもなければ、中途半端な合理的な未来を語る言葉でもありません。
「預言」とは、なによりも信じるべき神様から預けられた言葉なのです。
神様から預けられた「預言」。それは神様による御言葉です。神様は、自らの意志をもって、世界を創り、人間を造られました。そしてただ造って終わりではなく、今も、共に生きて、共にさまざまな痛みや苦しみを感じて、私たちの命を養ってくださっている方なのです。そしてそのために、御言葉を語り続けられているのです。御言葉には、神様の思いが込められているのです。「預言」そして「御言葉」とは、このような神様が私たちと向き合った中で、語られている言葉なのです。
2: 避難すること
今日の箇所では、三つの預言が実現されたことが記されています。そのうえで、これらの預言が実現するということから、実際に、神様は私たちにその御言葉から何を教えておられるのか、考えていきたいと思います。
この預言の実現から聞くことの一つには、神様が導き出された道の先、それはエジプトではないということを教えられるのです。今日の箇所において、神様は最初の預言を通して、ヨセフにエジプトへと避難するように教えるのです。そしてまた、最後の預言からは、その後、最終的にイスラエルのガリラヤのナザレへと導かれるのです。ここには、神様の導き出された道は、エジプトにとどまる道ではなく、その導きはあくまでも、約束の地イスラエルへと示されているのです。
私たちには、どこに神様の御心があるのだろうかと、悩まされる時があるのではないでしょうか。そして、なんとなく、自分にとって苦しい道のほうを選ぶほうが、自分の思いではなく、神様の思いに近づいたような気になっていると感じるのではないでしょうか。自分にとって楽なほうを選ぶことが、悪いことだと感じてしまうことがあると思います。しかし、今日の箇所において、神様の御言葉として、ヨセフ一家はエジプトに避難しました。神様は目の前にある困難に、いつも無理をしてでも、全力でぶつかりなさいと言われているのではないのです。ここでは避難すること、逃げ出すことの大切さを教えられているのです。
最近では、ブラック企業、ブラックバイトと言われる企業によって、過重労働の中で自殺してしまったというニュースをいくつも聞きました。確かに、働くということはある意味、忙しいのが当たり前かもしれません。しかし、神様ご自身は、その創造の働きの7日目は休まれました。この休まれた日を含めて、神様は世界の創造をなされたのです。ここから神様は、私たちに休むことの大切さを教えてくださっているのです。時には神様は私たちが避難の道へと、逃げ出す道を作っていてくださることを覚えたいと思います。
そして、今日の御言葉は、ヨセフ一家がエジプトに避難したあと、もう一度イスラエルに戻ってきたように、ただ逃げ出し、そこにとどまることではなく、そこからもう一度、出発する時が来ること、神様はそこからもう一度道を開いてくださるということも学びたいと思います。神様は逃げ出すこと、避難する道を作ってくださると同時に、そこからもう一度新しく歩き出す道をも作り、導き出してくださっているのです。
3: ヨセフの信仰
そしてまた今日の預言から学ぶ、もう一つの事柄として、この神様の預言の実現には、ヨセフの信仰があったことを教えられるのです。ヨセフは、1章のイエス様の誕生の預言の時から、今日の三つの預言のすべてにおいて、従順に従ったのです。ヨセフが信じ、頼ったのは、他の何物でもなく、神様の御言葉なのです。自分の力や、他者の力、財産や権力ではありません。ただただ、神様の御言葉に従ったヨセフの姿をみることができるのです。
エジプトに行くとき、ヨセフは何を思ったでしょうか。住み慣れたイスラエルから離れることが、どれほど心細いことであったでしょうか。そして、エジプトからイスラエルに戻る時、ヨセフは、多くの子どもたちが殺されたことを聞いたうえで、イスラエルに戻ったのです。そこにはどれほどの恐れがあったことでしょうか。
このヨセフの信仰と先ほどの話をつなげてみるときに、「避難する道を造ってくださっている方、そしてそこからまた新しく道を開いてくださる神様」、つまり私たちの道は、神様が導いてくださるということを、信じるということになるのではないでしょうか。
今日の箇所における、預言の実現は、・・・時には、逃げ出すことも、時には信じて従うことも、どのような状況にあっても、主の御言葉に信じるときに、その道は開かれると教えているのです。
4: 御言葉は実現される
最後に、今日の箇所における預言の実現は、聖書における最大の預言、救い主が来られるという約束が実現されることを指し示しているのです。聖書において、最大の預言は、この世界に救い主がこられ、私たちを救い出してくださるということです。神様はイスラエルの民に、救い主の到来を語られてきたのです。そして、その一つに、イザヤ書53章の言葉があります。救い主の到来の預言である、イザヤ書53章をお読みします。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:1-5)
このイザヤ書53章は、「苦難の僕」として、イエス・キリストの十字架による救いを預言した御言葉です。神様は救い主の到来を約束されました。しかし、その救いの出来事は、輝かしい者、権力を持つ力ある者として来られるとは語っていないのです。むしろ、軽蔑され、見捨てられた者としてくると。この救いの預言は、イエス・キリストの十字架による死によって実現されたのです。神様は、自らの言葉に責任と決意をもって、救いの預言を語られた。そして、その実現として、自らが痛み、苦しみ、その出来事によって、私たちに平和を与えられたのです。救いの実現としてイエス・キリストは十字架において死なれました。
私たちはこの神様の御言葉を信じていきたいと思います。神様の愛に基づく御言葉を信じていきましょう。それは、先ほどのヨセフの信仰から見るならば、イエス・キリストが神様の御言葉に従順にしたがったうえで実現された御言葉です。確かに、神様は、私たち人間の救いの出来事として、イエス・キリストの十字架の出来事を起こされたのです。この十字架の出来事は、神様の痛みのうちにある、私たち人間の救いであり、そしてそれは、私たちに死に打ち勝った復活という希望の道へと続くのです。十字架のイエス・キリストが開かれる道。それは必ず新しい命への道へとつながっていくのです。わたしたちはこの神様の愛の御言葉を、素直に心を開いて受け取り、信じてついていきたいと思うのです。私たちには、神様による御言葉が与えられています。それは必ず実現される、神様の決心のうちに語られた御言葉なのです。私たちはその最大の預言である、イエス・キリストの十字架による救いを信じていきましょう。
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