1.この箇所の正典としての問題
この箇所は新共同訳聖書、口語訳聖書でも括弧でくくられています。ギリシア語原本(現存しない)にはこの箇所は含まれていなかったという説が学問的に有力だからです。しかし、後になって挿入されたとしても、この箇所がイエス様に関する証言であり、御言葉であることの価値や信憑性が下がることにはなりません。歴史を通して聖書を見ることで、人間が生きる具体的な状況の中で神が語られたことを、よりはっきりと認識することができます。
2.人を“手段”としてしまう冷たさ
律法学者とファリサイ派の人々はイエス様に問います。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」この女性は、ただイエス様を訴えるための道具として扱われており、ここに彼らの罪の大きさがあります。このように、自分を利するための“道具”として他者を見なしてしまう危険性(罪)が、私たちに一人ひとりにもあるのでないでしょうか。
3.イエス様の悲しみ
律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に投げかけた罠、ジレンマの一つは、もし“石で打ち殺せ”と言えば、“なんだ彼は全然愛の人などではないではないか”と非難されることです。そしてもし“石で打ち殺してはならない”と言えば、“モーセの律法に従わない”律法違反で訴えられるのです。
イエス様はこの時何もお答えにならず地面に指で何かを書いておられました。この時イエス様は悲しかったのではないかと思います。頑なな律法学者やファリサイ派の人々の態度、たった一人捕えられてきた女の人の姿、人が人を批難して裁き合おうとする姿に悲しんでおられたのです。
4.罪を犯したことのない者
7節でイエス様が言います。「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まずこの女に石を投げなさい」。この言葉にひとり一人去っていき、結局誰もこの女性に石を投げる人はいなかったということから、ここで救われたのは、この女性だけでなくて、sむしろ律法学者やファリサイ派の彼らこそ救われたと言えないでしょうか。イエス様と出会い、彼らは自らの罪に気づいたからです。私たちはイエス様の御言葉によって自らの罪に気づかされるのです。ひとり一人うちのめされた思いで立ち去ったのかもしれません。しかし彼らは、やがて罪赦された喜びと感謝を持つようになり、その喜びと感謝が生きる力となったのでしょう。
イエス様の11節の言葉「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」ここで、イエス様の言葉に突き動かされて、律法学者やファリサイ派の人たちの心にも変化が起き、考え方が変えられたことがイエス様に受け入れられ、イエス様は御自分と律法学者やファリサイ派を同列に置くような言い方をして、学者や律法学者たちと同じ立場にイエス様自身がへりくだられた様子が描かれています。
イエス様の最後の言葉「今からはもう罪を犯さないように」。ここで、イエス様はこの女性に“罪なんかどうでもいい”とは決しておっしゃいませんでした。罪の存在、その罪の償いの必要性をしっかりと見据えた上で、“行きなさい。もう罪を犯さないように”とイエス様はおっしゃられます。ここにはイエス様による罪の赦しと、私たちに与えられたセカンドチャンス(再び生きる機会)があります。(酒井朋宏)
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