1 モーセの心の変化
モーセは「わたしは何者でしょう。」(11)と考えていました。これが「あなたはいったい誰ですか」という問いとなっていくのです。ここにモーセの心の変化を見ることができます。モーセは「わたし」から「あなた」という思いに変わっているのです。自分だけを見ていた者が、他者との関係の意味を問いかけ始めているのです。
2 モーセの求め
モーセは神様に問いかけます。それはモーセが神様を求めているとも言えるでしょう。すべては神様の主権のうちにあります。しかし同時に、私たちには求めることが必要なのです。神様はすでにイエス・キリストによって、その扉を開いてくださいました。あとは、私たち人間が素直に神様を求めることによって、神様と出会うのです。
3 イスラエルの民が信じるために
神様は「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす」(10)と言われました。それに対してモーセは「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。」(13)と答えます。モーセには「イスラエルの民は聞いてくれるだろうか」という思いがあるのです。
「その名は一体何か」。神様の名前はイスラエルの民の救いのために示されました。モーセとの関係、そしてイスラエルの民にとって、どのような関係の神様なのか。それが問われているのです。
4 神の御名 「わたしはある」
神様の名前は『わたしはある』という名前です。名前の意味には「神様が存在する、しないではなく・・・神様はあなたのために、神であろうとする」という意味があります。神様はいつでもどこでも、とりあえず存在するという意味ではなく、人間との関係性のある神様であるということです。
5 共に生きる方
「わたしはある」という神様が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」とされます。この「わたしはある」という方は、イスラエルの歴史に参与される方であると教えられるのです。神様が名前を表されたことには危うさも含むのです。神様が名前を示さることは神様が人間の人生に参与すると同時に、神様ご自身が傷つくことでもあるのです。神様はそのうえで人間との関係を開かれた。名前を教えられたのです。
6 かたくなな心
最後に、神様はこれからのイスラエルの道筋を語られます。ファラオは「強い手を用いなければ」心を動かさないであろうというのです。神様の起こされる奇跡の一番に「人間のかたくなな心を開かれる」ことがあります。人間には人の心を動かすその最後の最後の一手を打つことはできないのです。最後には神様の導きしかないのです。ファラオの姿は人間の本来の姿ではないでしょうか。人間は愚かでかたくなな心を持つ者なのです。そしてその人間の心を動かす神様の御業があるのです。(笠井元)
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