1. テモテに対するパウロの励まし(11~12節)
今日私達はテモテへの手紙二の言葉を与えられました。使徒パウロはこの手紙を牢獄の中で書きました(1章8節、2章9節)。手紙を受け取ったテモテは、彼の弟子であり、また一緒にイエス・キリストに仕えてきた仲間でした。パウロは、テモテのことを「愛する子」(1章2節)、「わたしの子」(2章1節)と呼んでいますが、このことからパウロとテモテがとても親しい関係にあったことが分かります。
年老いたパウロは、いつ死を迎えるか分からない状況の中で、テモテに遺言や遺書のように教えを残しました。それは、イエス・キリストの内にあって苦しみに耐え、信心深く生きること、そしてそのために聖書に依り頼むことでした。
パウロは、テモテがこれまで彼の「教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐」(10節)に倣い、「アンティオキア、イコニオン、リストラで」彼に「ふりかかったような迫害と苦難」にも耐えてきたことを褒めています(11節)。この時、テモテはエフェソの教会を導いていました(テモテへの手紙一1章3節)。パウロがテモテをエフェソに留まらせたのは、教会の中に誤った教えを説く人々がいたからです。彼らは、イエス・キリストの福音を歪曲し、「自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなく」(2節)なっていました。そして、彼らの中には「他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者」(6節)さえいました。そのように、教会の外には迫害する人々が、教会の内には偽りを説く人々がいる中でどのように対処すべきか、パウロはテモテに助言しました。
その上で、パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(12節)と励ましました。パウロ自身、イエス・キリストを主と信じ、イエス・キリストに従って生きようとしたからこそ、様々な苦しみを受けてきました。彼が使徒として経験した苦難については、コリントの信徒への手紙二11章23~28節に記されています。
そして、イエス・キリストに結ばれた者がそれ故に苦難に遭うことは、決して驚くべきことではありません。というのは、イエス・キリストご自身が世に憎まれ、苦しみを受けられたからです(ヨハネによる福音書15章18節)。その上で、イエス・キリストは、弟子達に「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マルコによる福音書13章13節)と言われました。
2. 聖書から確かめる(13節)
この点に関して、今月の21日から日本で上映されている一つの映画、またその原作である小説に触れなければなりません。先週教会の臨時総会と教会学校教師会が終わった後、私はTOHOシネマズ天神に『沈黙――サイレンス』という映画を見に行きました。また、年末にその原作となった遠藤周作の同名の小説を久しぶりに読み返しました。『沈黙』は、江戸時代初期の長崎や五島を舞台とし、ロドリゴというローマ・カトリックの司祭が、日本に密入国し、捕えられ、そして踏絵を踏むまでの過程を描いています。
私は、高校生の時、教会に行くようになりました。当時私は、『イエスの生涯』、『キリストの誕生』、『死海のほとり』、『深い河』、そして『沈黙』といった遠藤周作の小説から多大な影響を受けました。特に、『沈黙』においてロドリゴが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」という声を聞いて、踏絵を踏む場面に感動し(遠藤周作『沈黙』新潮文庫; え-1-15, 東京: 新潮社, 2003年, 改版, p.268)、イエス・キリストを専ら〈同伴者イエス〉として理解し、信じていました。
しかし、久しぶりに『沈黙』を読み返し、またその映画を観て、昔とは異なる感想を抱きました。主人公の司祭は「信仰の故に苦しんでいる人がいるのに、何故神は沈黙しているのか」という自分が抱いた問いの中を際限なく堂々巡りし、次第に主なる神が分からなくなっていったのではないか。そのため、「踏むがいい」という声を「踏絵の中の基督」から聞いたということにするしかなかったのではないか。そのような印象を私は受けました。
その上で、ロドリゴが自分の疑問について〈聖書から〉答えを見つけようとしたならば、別の結末があったのではないかと思いました。『沈黙――サイレンス』では、十字架やロザリオや聖画は出てきますが、聖書は全く出てきません(これは、私自身が聖書を容易に手に入れ、読むことの出来る現代の日本に生き、またバプテストという聖書主義に立つ教派に属しているから感じることかも知れませんが)。
信仰の事柄に関して聖書以外の何か(或いは誰か)を拠り所にしたり、聖書が強調していないことを強調したり、聖書に書かれていないことを言う時、私達の信仰は聖書の教えを逸脱し、否定するものになってしまいます。パウロが「悪人や詐欺師」と呼び、「惑わし惑わされながら、ますます悪くなって」いると厳しく批判する人々がまさにそうでした(13節)。エフェソという小アジアの都市で暮らしていた彼らは、自分の信仰にギリシアの神話や哲学の教えを混ぜることによって誤った理解を持つようになりました。2章18節でパウロは「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています」と指摘しています。
「踏絵の中の基督」が「踏むがいい」と言ったというのであれば、それが本当にイエス・キリストの言葉か、聖書から確かめる必要があります。何故なら、私達は、自分の都合や好み、考えに合わせてイエス・キリストさえ作り変えようとし、イエス・キリストにさえ「あなたはこのようになるべきだ」と要求してしまうほどに堕落しているからです。
3. 〈踏むがいい〉信仰の行き詰まり
バプテスマを受けて間もない頃、私の信仰理解は〈遠藤周作的キリスト教〉、別の言い方をすれば〈踏むがいい〉信仰とでも言うべきものでした。即ち、「踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ」(同上 p.274)と言って、私の罪や弱さを容認してくれる方としてイエス・キリストを理解していました。
しかし、クリスチャンとしての歩みを始めると、〈踏むがいい〉信仰はすぐに行き詰まりました。というのは、〈踏むがいい〉信仰には、クリスチャンとして成長することの必要性を感じなくさせるところがあるからです。
私がバプテスマを受けた教会は、自宅から数分で行ける距離にありました。それは教会の伝道エリアが私の住んでいた地域と丁度重なっていることを意味しました。そして、当時は小学校や中学校の同級生が地元にまだ沢山住んでいました。そのため、バプテスマを受けて最初の数年は、教会以外では自分がクリスチャンであることを一切表に出さず、知られないように努めていました。
当時その教会では年1回伝道新聞を発行し、地域に配布していました。牧師から「伝道新聞にあなたの信仰の証しを載せてもいいですか」と訊かれた時、自分がクリスチャンであることが皆に知られてしまうのを恐れて即座に断りました。それどころか、牧師や他の教会員の方には自宅への訪問も電話も郵便物の送付も一切お断りしていました。年賀状や暑中見舞さえ出さないで欲しいとお願いしました。はがきに「主の祝福がありますように」とか「主の御名を讃美します」といったクリスチャン固有の表現が書かれているのを誰かに見られることを恐れたからです。こうしたクリスチャン生活を送っていたので、私は同じ教会の方から〈かくれキリシタン〉と言われました。
そのような私にとってとても気が重い教会の活動が2つありました。一つは地域の人が比較的来やすいクリスマス、もう一つは伝道チラシのポスティングです。イースター礼拝の案内チラシを自分が住んでいた町内の家々のポストに投函していると、小学校時代の同級生の女の子と偶然出会いました。彼女は「何をしているの?」と尋ねてきました。ところが、その時、私は「チラシ配りのアルバイトをしていて、今この辺りを回っている」と虚偽の事実を伝えました。しかも、その子が「どんなチラシ配っているの?」と言って見てきたので、それが教会のチラシであることがバレました。彼女から「キリスト教なんか信じているんだ」と言われると、私はその場から逃げ出すように立ち去りました。
また、当時その教会には伝道所があり、アメリカの南部バプテスト連盟から派遣された宣教師が開拓伝道に取り組んでおられました。そして、月1回交換講壇でその先生がメッセージに来られました。或る日、礼拝での奉仕を終えて帰られる先生を最寄りの駅までお送りするよう言われました。すると、私の家の近所に住んでいた幼なじみの女の子と駅前でばったり会ってしまいました。しかも、その先生は彼女に、私がクリスチャンであることをはっきりと言われ、伝道トラクトを鞄から取り出して渡し、「あなたも教会に来ませんか」と誘われました。ところが、それに対し、私は彼女に「別に洗脳とかマインドコントロールとかされていないし、特別宗教にのめり込んでいるわけではないから。勧誘とかも一切しないから。このことは皆に黙っていて」と言ってしまいました。彼女が去った後、先生は私に「今言われたことは本当に悲しかったです」と一言言われ、駅の構内に入っていかれました。
どちらの出来事の後も、私は恥ずかしさと情けなさから激しい自己嫌悪に陥りました。どうして自分は人の目を気にしてしまうのか。イエス・キリストを主と信じていることを他の人にはっきりと言い表すことの出来る勇気と信仰を持てないのか。その時、「踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ」という言葉を思い出し、〈踏むがいい〉信仰をもって自分を慰め、正当化しようとしました。しかし、それに対し、「本当にそれでいいのか」という良心の責めが波のように押し寄せてきました。とはいえ、どうしたらそのような自分を変えることが出来るのかが分かりませんでした。
4. いつも私達に語りかけておられる主なる神
それから暫く経った2000年の初め、宣教師がアメリカに帰国することになり、その教会での最後のメッセージが語られました。メッセージは何か目新しいことを語ったものではありませんでした。しかし、そこで私は〈踏むがいい〉信仰から脱却するための手がかりを得ることが出来ました。
先生は、ローマの信徒への手紙12章2節やテサロニケの信徒への手紙一5章16~18節など、幾つかの聖書箇所を引用され、私達が「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」なるために、主なる神は私達に聖書を通していつも私達に語りかけている、だから聖書に聴き続けて欲しいと話されました。その上で、日々の生活の中で聖書の言葉を一つ行うことが出来た時、私達は「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる」生き方へと一歩近づいたと励まされました。
それまで私は、自分を正当化するために〈踏むがいい〉信仰に留まろうとする一方で、とても強い信仰を持っているように見えた人々に憧れ、自分も彼らのようになりたいと思っていました。そのため、近隣のいわゆる〈根本主義〉や〈聖霊派〉の教会の礼拝や祈祷会に出席したり、超教派の聖会やセミナーに参加したりしました。また、迫害や殉教に関する歴史書や信仰書を買ったり、大学図書館で借りて読みました。その時、心が一時的に燃え上がりました。しかし、長続きせず、暫くすると信仰が弱く、意志も弱く、気も弱い自分にまた戻りました。その度に強い信仰を持っている人達と自分は全く違う世界を生きているように思われ、落胆しました。
しかし、宣教師のメッセージを通して、私は、クリスチャンとしての成長というのは、生活の中で聖書の言葉に一つ一つ従うことによって具体的に実現されていくものであるということに目を開かされました。それは、まだまだ不信仰で罪深い部分がある中で、聖書から目指すべき方向を示され、罪の悔い改めへと導かれ、イエス・キリストに従って歩む者へと徐々に変えられていくことです。
5. 聖書から決して離れない(14~17節)
パウロは、テモテが「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする」ことを願いました。そして、そのために「自分が学んで確信したことから離れてはなりません」(14節)と教えました。
テモテは、祖母ロイスと母エウニケから信仰を受け継ぎ(14節、1章5節)、「幼い日から聖書に親しんで」(15節)きました。また、パウロからより深く聖書を学び、イエス・キリストの福音への確信に導かれました。パウロは、これまでテモテに与えられてきたものとは別に、テモテの信仰を成長させるものがあるとは言いませんでした。そのように考えてしまう時、パウロが批判した人々のように、イエス・キリストの福音から迷い出てしまいます。
テモテの信仰を成長させるものは、既にテモテに与えられていました。それは聖書です。主なる神は、「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」(15節)として、テモテに、そして私達に聖書を与えて下さいました。その聖書により一層依り頼むよう、パウロはテモテを指導しました。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(16節)とパウロは言います。「神の霊の導きの下に書かれ」と訳されているギリシア語(theopneustos)は、「神」と「息を吹き込む」という意味の2つのギリシア語から成っています。主なる神が「命の息を吹き入れられた」時、土の塵に過ぎなかった人間が「生きる者となった」ように(創世記2章7節)、聖書には主なる神の息が吹き込まれています。それ故、聖書には誤りがなく、主なる神の命が充満しています。聖書は私達を主なる神の命へと導きます。
そして、パウロは、そのような聖書が「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」という点において「有益」であると述べています(16節)。主なる神は聖書の言葉を通して私達を訓練されます。私達は「どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられ」(17節)ていきます。
6. 聖書の言葉によって生きる
私は聖書が教えていることを日々の生活の中ですぐに出来るようになったわけではありませんでした。いや、今もそれが十分に出来ているわけではなく、それを目指している途上にあります。しかし、私達が聖書の言葉に聴き従う時、それを書かれた聖霊が働いて下さいます。そして、私達を一歩一歩前に進ませて下さいます。
宣教師の帰国から大分経った後、教会で牧師に「自分が休暇を取る週の主日礼拝でメッセージを語ってくれないか」とお願いされました。その時、私は、奉仕それ自体も勿論ですが、人の行き来が多い道路に面した所にあった教会の掲示板に自分の名前が出ることを恐れました。「自分のことを知っている人間が見たらどうしよう」と強い不安を抱きました。
そのような中で、主なる神は私に「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである」(箴言29章25節・口語訳)という聖書の言葉を通して、ご自身以外の一切のものを恐れてはならないと教えて下さいました。この言葉に励まされ、支えられて、メッセージを引き受けることが出来ました。「どうということのない話だ」と思われるかも知れません。しかし、聖書の言葉に押し出されて一歩を踏み出せたことは、人の目が気になって仕方なかった私にとって、〈踏むがいい〉信仰から抜け出る最初の一歩となりました。
「踏むがいい」という声に従う前に、聖書を通してイエス・キリストが私達に語りかけておられることに耳を傾けましょう。イエス・キリストは今も生きておられます。どのような状況にあっても私達を見捨てず、私達と共にいて下さいます。イエス・キリストの言葉には私達を生かす力があります。私達を立ち上がらせる力があります。私達を変える力があります。イエス・キリストの言葉を信じ、そこに堅く立って歩む時、どのような苦しみや誘惑が襲っても、主がそれに勝利させて下さいます。
(柏本 隆宏)
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