2月12日、今朝はどのような聖書の個所からみ言葉に聴こうかと考えていました。昨日は2月11日であり私たちにとって「信教の自由を守る日」でした。この日は私は何十年も「建国記念の日』反対デモに参加しています。国では「建国記念の日」となっていますが、9回にわたる法案提出、廃案の「すったもんだ」を繰り返して1966年佐藤栄作首相の時代に成立し、67年施行されました。なぜこんなに議論が沸騰し、現在でも反対運動があるかと言いますと、2月11日は旧「紀元節」だからです。この日は『日本書紀』において、神武天皇が即位した日として宣伝され、このような神話によって正当化された絶対天皇制軍国主義の歴史観によってアジア・太平洋戦争が起こったのでした。戦後もこのような神話に則ってこの日を建国記念の日にすることは、侵略戦争への反省が欠如し、またぞろ、「神話」を持ち出す「歴史の真実さの欠如」を意味しています。まず、世界広し、と言えども、善いかどうかは別にして、このような国は他には存在しないでしょう。
聖書はどこに立って読むかで読み方が変わってきます。月に一度第4月曜日夕方6時より、天神の米国センターのある三越角で沖縄のオスプレー配備反対、辺野古への基地移転反対のゴスペルを歌う会で賛美歌をひたすら歌っています。そこで、何回か読まれているミカ6:6~8と詩編62:10~11が心に響いてきて、クリスマスイブの説教に取り上げようとも思いましたが、2か月間心に温め、寝かせてきました。詩編62:11は、「暴力に依存するな。搾取を空しく誇るな。力が力を生むことに心を奪われるな」というもので、今朝、礼拝への招きの詞(ことば)として用いました。もう一つは、「人よ、何が善であり、主がお前に何を求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共にあゆむこと、これである」(ミカ6:8)です。沖縄の人々を思い、だれもがほとんど無関心で通り過ぎていく天神でこの箇所が心にズシリと響くのです。そういうわけで、今朝は、ミカ6:6~8を説教のテキストとして選んでみました。
1.預言者ミカについて
まず、預言者「ミカ」について考えてみましょう。名前の「ミカ」ですが、「ミカ」とは「ミカヤフ」というヘブライ語の短縮形です。「だれがヤハウェ(主なる神)のようなお方があろうか」という意味です。ミカ7:18には、「あなたのような神が他にあろうか」と言われていますが、大天使「ミカエル」とは、さまに、「あなたのような神が他にあろうか」という意味です。東福岡教会にも「美嘉」さんという名の方がおりますが、素敵な名前です。現在は米国大統領のトランプさんの言動があれこれ話題になっていますが、ジミー・カーター大統領は彼の就任演説でミカ6:8「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共にあゆむこと、これである」を引用したそうです。その他、ミカ4:3「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」は、ニューヨークの国連本部の前に書かれていると言われています。また、5:1「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る」はクリスマスにおいてキリストの到来の予言として読まれています。このように「ミカ」の働きは主イエス様の教えと行動に影響を与え、2700年後の私たちにも大きな影響を与えているのです。これがミカという人物です。彼は、預言者イザヤと同じ時代に活動した人物ですが、イザヤがエルサレムの王宮で働いた預言者である一方、ミカはミカ1:1によると、エルサレムの南西の丘陵地モレシェト(1:1)の貧しい農民、あるいは牧畜民の仲間だと思われます。
2.ミカが活動した時代背景
ミカが活動したのは、1:1によると、「ユダの王ヨタム(750-735年)、アハズ((735年-)、ヒゼキヤ(715-687年)王の時代でした。ヨタムが王になった時には、比較的平和でしたがアハズが王になったときは、ユダ王国は国家的危機に直面していました。
ミカの時代は、現在ではイラクの辺りを支配していたアッシリア帝国がイスラエルの北の隣国シリアとパレスチナに圧力を加えており、それらの国々の南に位置していたユダ王国は非常に動揺していました。アッシリアに隷属してその支配下に生きるのか、あるいは、もう一つの超大国エジプトの助けを借りてアッシリアに反旗を翻すか?問題は緊迫した国際情勢だけではなく、預言者の目から見ると、国内的にも、社会的、経済的不正が満ちていたのです。裕福な大土地所有者は夜も寝ないで、邪悪な作戦を練って、貧しい農民から生活手段さえ奪おうとしていました。「災いだ、寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は。夜明けとともに、彼らはそれを行う。力をその手に持っているからだ。彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる。住人から家を奪い、人々から嗣業を強奪する(2:1-2)」。そして、いつものように、しわ寄せは弱い女性たちと子どもたちが被るのでした。「彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し、幼子たちから、わが誉れを永久に奪い去る」(2:9)。政治的指導者と言えば、彼らは自己の権力によって民衆を抑圧し、貪り、「人を食う人間」であると預言者ミカは断言します(3:1-3)。さらに正義の担い手であるべき裁判官は賄賂を取り、宗教者も金で働いています。「頭たちは賄賂を取って裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金を取って託宣を告げる」(3:11)。宗教世界も堕落していたのです。先日テレビを見ておりましたら、世界上位8人の総所得が何と36億人の総所得と同額であり、その8名の内6人がアメリカ人であるそうです。国境を越えて金儲けに奔走するいわゆる「多国籍企業」は、税金も払いません。これは日本の大企業も同じです。大企業は、テレビなどのマスコミを買収し、戦争を煽り(湾岸戦争、イラク戦争など)、最近では、学校までも金で買おうとしていると言われているのです。ニューヨークのウオール街のデモで有名になりましたが、米国では、上位スーパーリッチ1%が99%の富を独占していると言うのです。大統領選挙に金がかかり、既成政党の政治家は1%の超金持ちから巨額な政治献金を貰い、そのような現実に愛想をつかした白人の貧しい労働者が選んだのが不動産王のトランプさんであり、彼の人種差別、性差別などはおかまいなしと言うわけです。そして、ほとんどのことでアメリカを見習おうとしているのが現在の日本の政治状況でしょう。このような社会的、経済的、政治的、宗教的腐敗の中で滅びは進行していきます。ミカは、北イスラエルと南ユダの崩壊を目の当たりに経験した預言者でした。
3.ミカ書の構造
以上を踏まえて、ミカ書の構造を考えてみましょう。印象的な言葉は「聞け」という繰り返される叫び声です。1:2では「諸国よ、皆聞け」とあり、預言書の第一部が始まります。3:1でも「聞け、ヤコブの頭たち」という呼びかけで、第二部が始まり、9節でも「聞け、このことを」と繰り返されています。そして、6:1,2において「聞け、主の言われることを。聞け、山々よ、主の告発を」とあり、預言書の第三部が始まります。ツイッターなどの無責任な情報、情報過剰、金にまみれた偽りの情報操作の中で、私たちが聞くべき言葉は主なる神からくるのです。預言者は、「主の言葉に聞け」と語ります。
4.聞くべきこと1:福音を思い起こせ
私達が聞くべき第一のことは、神の恵み、福音です。6章は、全世界の前で、神とイスラエルとが裁判所で論じあっているような場面です。「わが民よ、わたしはお前に何をしたというのか。何をもってお前を疲れさせたのか。わたしに答えよ」。(3節) 私たちは余りに不正が大きく頻繁であると、そして、私たちが無力で、祈りが聴かれないと、信仰に飽きてしまい、疲れてしまうのではないでしょうか?しかし、神は預言者の口を通して言います。「わたしはお前をエジプトの国から導き上り、奴隷の家から贖った。また、モーセとアロン、ミリアムという指導者によって荒れ野の40年を守ってきた。荒れ野でモアブの王バラクがイスラエルを呪うように仕向けたが、バラムはそれに抵抗し、イシラエルをかえって祝福したではないか。そして最後にはシティムから出立してヨルダン川を渡り約束の地、ギルガルに入ったではないか」と。私達キリスト者にとっては、尊い主イエスの十字架の死の出来事でしょう。それを、「思い起こすこと」「思い起こし、御業をわきまえること」、これが信仰の基礎であり、出発点です。キリストの自己犠牲の愛、これ以上素晴らしいことはこの世界では決して起こりません。私達が聞くべき第一のことは、すでに起こっている神の恵み、福音の出来事です。それを思い起こすことです。
5.聞くべきこと2:主は「わたし」自身を求めておられる
聞くべき第2のことは、信仰の応答として主なる神は、私たち自身を求めておられるということです。「何をもって、わたしは主のみ前にでるべきか」という問いに対して、主なる神は何かの捧げものを求めてはおらず、「あなた」を求めておられると言うのです。6:1~8では、「お前」(あなた)1節」、「わたしはお前に」(3節)「わたしに答えよ」(3節)、「わたしはお前を」(4節)、6節からは逆転してイスラエルが「わたし」として語っています。そして、8節で預言者の語り掛けとなります。印象的なことは「わたし」と「あなた」という深く、親密な神と信仰者との交わりです。主なる神は犠牲、捧げものを求めず、「あなた」を求めておられるのです。アハズ王は余りの不安の中から、自分の長子を神に捧げたと言われています。これはモレクという異教の習慣で、聖書は「主の山に備えあり」という格言あるいは信仰告白があるように、イサクの代わりに小羊を捧げることで、子どもを捧げるようなあり方を克服したはずでした。そして、イエス・キリストが十字架で殺されることを通して、あらゆる犠牲がもはや意味のないものとして乗り越えられているのです。しかし、人は自分の不安、絶望状態の中で子どもさえ犠牲にしてしまうことがあるのです。まず、聴くべき第二のこととして、「何をもって、わたしは主の御前に出るべきか」という思いに対して、「手をからにしてでよい」。主はあなたを愛し、あなた自身を求めておられるということです。
6.聞くべきこと3、神と共に歩むこと(ハラカー)
そして、聴くべきことの3は、ジミー・カーター大統領が引用し、この数か月私の心に響いている言葉です。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共にあゆむこと、これである」ということです。私たちはもはや深刻な求道者である必要はありません。私たちはむしろ、神に感謝し、賛美する者であるはずです。なすべきことは、「もうすでに」告げられているというのです。私たちはどのようなことに興味を持っても、どのような仕事を生業としても良いのです。ただ、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」。正義(ミシュパート)とは、正義(ツェデク)と公平をもって裁くことで、預言者アモスの中心的メッセージでした。慈しみ(ヘセド)は愛の預言者ホセアの主張でした。「へりくだり」(用心深く、注意深く)神と共に歩む(ハラーカー)ことも重要です。こうして、ミカは、「預言者アモス、ホセア、同時代の預言者イザヤの説教の中心的メッセージを一つにまとめて」ここで語っているのです。ここに記されている答えは、力ない人々の弁護者として働き、傷つき、助けを必要としている人々のために配慮を示すことによって、神と共に、着実に生きることです。「これである」。これ以上の尊い教えはありません。そしてなすべきことはもうすでに告げられているのです。人があれこれ理屈を捏ねるのは、実は、その自己中心的生き方、金がすべてであるという本音、高慢や浅知恵によってこの戒めに従いたくないからなのではないでしょうか。
最近読んだ『住民と自治』という雑誌の2017年2月号(自治体研究会編集、自治体研究社発行)に掲載された専修大学法学部教授の白藤博行という人の言葉を引用したいと思います。「1年間も地方自治法の連載を続けて情けない話ですが、教えてください。なぜ日本政府が、沖縄県と沖縄県民の基本的人権や地方自治をここまで踏みにじって平気でいられるのか。なぜ国会は、弱者をつぶすTPP法案、老人いじめの年金カット法案、賭博推進のカジノ法案を強行採決して平気でいられるのか。そしてなによりも、多くの日本人が、なぜかくも残酷な政治・行政を「支持」していられるのか。このまま唖然、呆然・愕然のなかで連載を終えてしまいたくありません」。私はこれに、「なぜ、大方の憲法学者が憲法違反であるといい、国民の70%以上が反対している安保関連法案を成立させ、3・11の原発事故が全く終結していないにもかかわらず、原発を再稼動し、また、原発を輸出しようとしているのか。そして、人を小ばかにしてあざ笑うかのように国会答弁をする人たちを支持することができるのか」を加えたいと思います。
預言者ミカから約100年後のエレミヤ書26:18を読んで終わります。「モレシュの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり、エルサレルは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。ユダの王ヒゼキヤとユダのすべての人々は、(彼の厳しい告発のゆえに)彼を殺したであろうか。主を畏れ、その恵みを祈り求めたので、主は彼らに告げた災いを思い直されたのではないか」。100年後にその言葉と生き方の真実が証明される。壮大なスケールの歴史観です。私たちキリスト教信仰者の歩みはかくありたいと祈らされます。(松見俊)
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