1: エトロのもとへ
モーセは、しゆうとのエトロのもとに帰ります。そしてエジプトに帰ることをお願いします。このとき、モーセは「神様からイスラエルの民を救い出すようにと示されたので・・・」とは言わないで、「親族が元気かどうか気になるので・・・」と言いました。
モーセはイスラエルの民が打ち殺されていることを見て、そこからミディアンに移り住みました。ミディアンでどれくらいの時間がたったのでしょうか。モーセにはイスラエルの民が、今、どのようになっているか想像もつかなかったのです。モーセがエジプトに行くことは、エジプトにいるイスラエルの民が元気か確かめるところから始まる出来事であったのです。
2: 神様の主権性
モーセはエトロにエジプトに帰りますと言います。そのうえで、神様が「エジプトに帰るがよい」(19)といいます。このことは主の主権性を表しています。私たちが日々歩いている道は、この主なる方の導きのなかにあるのです。私たちが主の御心を求め続けること、神様を信じ続けることを期待して、主はいつも共にいてくださるのです。
そして「彼(ファラオ)の心を頑なにする」(21)と語られます。この言葉も、主の主権性を感じさせます。エジプトから救い出そうと考えられている神様がファラオの心を頑なにするのです。これは神様が人間の自由を奪い取って、ファラオは神様の救いの御業をそのまま受け入れるのではないことを表します。「心を頑なにする」とは、神様が人間に自由を与えるという意味になるのです。
3: 執り成しによる救い
神様は「モーセと出会い、モーセを殺そうとした」のです。ここから様々なことを読み取ることができます。モーセの妻ツィポラが息子の包皮を切り取りモーセの両足につけたのです。ここではモーセと神様の間にはツィポラという存在があったのです。この存在は、神様とイスラエルの間にいるモーセ、モーセと神様の間にいるツィポラ、モーセとイスラエルの民の間にいるアロン、そして神と人間の間にイエス・キリストがいること。執り成す者がいることを見ることができます。
この行為から、エジプトからイスラエルを救いだすときになされる「血を塗る」という行為の予型として、また聖書全体を通してみれば、主イエスの十字架という「血による救い」を見ることができるのです。
4: 礼拝(27-31)
モーセは主の言葉をアロンに告げアロンがイスラエルの民に語ります。この言葉を民は信じて、神様に礼拝したのでした。民はまだ神様の救いの御業を見たのではありません。その御言葉を聞いた時に信じて、礼拝したのです。ここに神様の主権的救いでありながらも、その言葉に応答する人間の信仰があるのです。(笠井元)
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