1: 聖霊によって
1:1 悪魔とは
今日の箇所は「イエス様が悪魔から誘惑を受ける」箇所です。ここで「悪魔」は、「悪魔」とも「誘惑する者」とも記されています。まず、少し「悪魔」という存在についてお話をしたいと思いますが・・・悪魔とは・・・と考えますときに、それは聖書だけではなくて、世間でもいろいろな形、意味で語られています。すこし調べてみましたが、「悪魔」というのは、本来は仏教語であり、サタン、デビルの訳語として用いられているようです。「悪魔」を、日本で具体的に考える時には「鬼」「天狗」といったものだったようです。そのような理解では、どちらかと言いますと、「悪さをする者」「人間に不幸を与える者」「絶望を与える者」と考えているのではないでしょうか。
今日の聖書では、そのような悪魔という存在を「誘惑する者」と言います。ここでは「悪を行う者」「わたしたちに不幸を与える者」という理解というよりは、わたしたちに「悪を行わせる者」「不幸に導く者」「私たちの心が絶望になるように誘惑する者」という理解になるのです。そして、この悪魔の誘惑を一言で言えば、「神様から人間を引き離す者」その「関係を断ち切るように導く者」と言うことができるでしょう。
旧約聖書で言えば、アダムとイブのところに「蛇」として現れ、アダムとイブが神様との約束をやぶるように仕向けた者として現れます。また、ヨブのところでは、ヨブを神様から引き離すために現れた者です。そのほかにもさまざまな姿、形をもって、神様から私たちを引き離す誘惑、その関係を断ち切るために働いている、それが悪魔というのでしょう。
1:2 バプテスマの後に
今日の箇所は、イエス様が、悪魔からの誘惑を受けられたという箇所です。この時は、イエス様がバプテスマを受け、天が開き、神の霊が下った、そのすぐ後の時です。イエス様は神様から聖霊を注がれ。ここに神様とイエス様に確固たるつながりが与えられたそのすぐ後の箇所なのです。イエス様はバプテスマを受けられ、そのすぐあとにイエス様は誘惑にさらされるのです。悪魔という者が、神様と私たちを引き離すという性質のものであると考えるときに、ある意味、「この時」「神様とつなげられた時」に現れるのが一番であり、理解できる出来事なのです。イエス様が神様と繋がった。人間が聖霊に導かれて神様を自らの主としたという出来事が起こされたのです。そしてだからこそ、誘惑の働きが起こされていったのです。
誘惑とは、神様と人間を引き離し、その関係を断ち切るために働くものです。もともと神様と繋がっていない者、神様のことを主としていない者に、それ以上の誘惑は必要がないのです。だからこそ、人間が神様と繋がった時、天地創造の神様を信じ、イエス・キリストを自らの主と告白したときに、悪魔の誘惑が始まるのです。これが悪魔の働き、誘惑です。私たち人間、もともと自己中心的であり、神様を信じていない者が、神様を信じようとし始めた時、そして神様を知り、神様を自らの主と告白するときに、その誘惑の働きにさらされる者となっていくのです。
そのような意味で、今日、このようにイエス様に誘惑の働きが起こっていったことは、当然のことでしょう。そして、それは私たちが、神様を信じれば信じるほど、悪魔の働きにさらされていく、神様を主と告白すればするほど、その誘惑の働きも激しくなっていくということなのです。
1:3 聖霊によって
そして、今日の箇所ではイエス様は、この悪魔の誘惑を受けるために「霊に導かれて荒野に行った」と記されています。聖霊は神様です。神なる導き主である聖霊が誘惑に導いたのです。それは神様が人間を苦しめようと考えておられたということではないのです。むしろ、このような誘惑もすべて神様のご計画のうちに起こされているということ、悪魔のささやきも、すべては神様の思いを超えることはないということです。そのような意味で、わたしたちが、どこにいようとも、どのような状況にあっても、神様から見放されることはないのです。
1:4 人間であることをやめるという誘惑
このあとに起こされる最初の誘惑において、悪魔が「神の子なら・・・」と言うように、イエス様は、神の子なのです。そして、イエス様は「神の子」でありながらも「人間」としてこの世界に来られたのです。イエス様は100%神様であり、100%人間としてこの世に来られました。それは人間が本当の意味で救われるために、別の言葉で言えば、人生を喜んで生きることができるために、イエス・キリストは人間としてこの世に来られたのです。
そのようなイエス様に悪魔は「お前は神の子なのだから・・・」と人間であることをやめていくようにと誘い、ささやいているのです。神の子イエス様にとって、イエス様が自分の利益だけを考えるならば、人間であることはどれほど意味のないことでしょうか。イエス様にとって一番の誘惑は、人間であることをやめることなのです。悪魔は、イエス様に、人間であることを捨てるようにと囁いているのです。この悪魔の誘惑は、他者のために生きること、他者に仕えることをやめるように囁いているのです。「自分のために生きればよいではないか」、「自分の利益が一番大切だ」と、ささやいているのです。悪魔の誘惑は、人間であること、その弱さをイエス様が捨てることでもありました。人間であることによって感じなければならない、痛みや苦しみを受けないということを選ぶように誘うのです。そのような誘惑に対して、イエス・キリストは人間であることを捨てませんでした。イエス・キリストは、人間として生きること、それは人間と共に生きること、私たちのために生きることを選ばれたのです。
2: 人はパンだけで生きるのではない
今日の箇所における、誘惑の一つ目に、誘惑する者は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(3)と言いました。それに対してイエス様は「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(4)と答えられたのです。
私たちはきちんと食事をしなければ生きていくことはできません。ここでは「食事をしてはいけない」「食べ物を食べることは悪いことだ」と言っているのではありません。「人はパン『だけ』」で生きるのではないと教えているのです。この言葉は、私たちが「生きる意味」を教えているのです。人はパンだけで、そしてパンのためだけに生きているのではないのです。食事をすることは大切なことです。楽しく、時にはおいしものを食べようとすることも大切なことだと思います。しかし、私たちはそのため「だけ」に生きているのではないのです。そのため「だけ」に神様から命をいただいているのではないのです。イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と教えられます。私たちは「神の口から出る一つ一つの言葉」をいただくことで、本当の生きている意味を教えられるのです。神様の言葉、つまり御言葉の中に、私たちは生きる意味を知るのです。
3: 深淵に落ちてこられた方
続いて、悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(6)と誘惑するのです。
悪魔はイエス様に、「神殿の端から飛ぶという行為をもって、神様が共にいるということを証明したらどうだ」「神様があなたと共にいることを、人間にはできない、驚くような奇跡的出来事をもって証明したらどうだ」と、言っているのです。わたしたちがキリスト教を信じていくときに、「あなたは神様を信じて何か良いことでもあったのか」と聞かれることもあるのではないでしょうか。また皆さん、自問自答して、「神様を信じて何か良いことあったかな」と思うことも時にはあるのではないでしょうか。
朝の祈祷会では、ときどきこれまでの自分の信仰生活を語り合います。そのときに「神様を信じても、その人生で何か良いことがあったかと言えば、そんなことはなかった。むしろ苦しいことばかり起こったような気がします。それでも、神様を信じていて良かったと思います」という言葉を聞くのです。とても素敵な信仰だと思います。
確かに、キリスト教の神様を信じることで、お金持ちになったり、なにか自分の勝手な願いが叶うことはないのです。もちろん信じて祈ること、願うことは大切なことです。しかし、その私たちの祈り、願いの最後には「神様、あなたの御心のうちに行われますように」という思いが必要なのだと思います。私たちの願いは叶うことも叶わないこともあります。そして、どちらにしてもそこに神様の御心があることを覚えていたいと思います。
イエス様は、神殿から飛び降りることで、神様を証明されなかったのです。イエス様が神様を表したのは、十字架の出来事によるのです。ある意味人生の痛みの深淵へと飛び落ちていくことで、その深み、闇に落ちていくことで、神様を表されたのです。神様は「神殿から落っこちても大丈夫」とは言っていません。しかし、人生において私たちがどれほど苦しく、まるで地獄のどん底にいるような時にあっても、イエス様はその隣に生きているのです。そのことを確かに表されたのが、イエス・キリストの十字架です。主イエス・キリストは十字架の上において、死に、そしてそのことによって、私たちがどのような場面にあっても共におられることを示されたのです。
4: なにを神とするのか
悪魔は、イエス様を高い山に連れて行き、世のすべての国々と、その繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9)と囁くのです。それに対して、イエス様は「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(10)と答えるのです。これまで、第一、第二と誘惑があり、最後に悪魔はこのように囁くのです。これらは、私たちが生きる上で、とても大切な意味を持っているのです。
人間が生きている中で一番大切なことは「何のために生きているのか」ということではないでしょうか。どれほど頭が良くても、お金持ちになっても、権威、名誉を持っていても、生きる意味がわからなければ、どれほど虚しいものとなるのでしょうか。
人間は、何のために生きるのか。この質問に対するわたしの答えは、「ただ神様の栄光のため」と答えます。もともと私自身も思春期の、これからどのように生きていくかを考えている時に「なんで神様のために、しかもその栄光?なんでそんなことのために人間が作られ、生きなければならないのだ」と思ったこともありました。私がこのように思っていたころに考えていた「栄光」というものは、きらびやかで権威的であり、だれもがひれ伏しているようなイメージでありました。つまり三つ目の誘惑のように、「この世の繁栄」が「栄光」であると思っていたのです。そう思っている以上「わたしは神の栄光のため生きていこう」と思うことはなかったでしょう。
しかし、私が大きく変えられたのは、私自身が大きな病気と向き合う中で、でした。もともと先天的に病気をもっていたようですが、高校生になったときに、自分には病気があることを教えられました。それから、勉強することもままならなくなり、これまでの人生計画が崩されていったのです。完全に抜け出せない、絶望の中に陥れられたのです。そのような中で、本当にずっと苦しみ、考えさせられました。そして、よく考える中で、そのときの私の絶望は、なによりも自分の名誉、お金、権威、つまり、自分の栄光を手に入れることができなくなったということによる絶望であったことに気が付かされたのです。私の自分が考えていた人生の計画は、すべてが自分のためだったのです。なんだか自分のため、自分の栄光のためだけに生きようとしていた、その計画が崩れただけで生きる道が絶望だと思っていた、自分が、情けなくなりました。私はその中で、「ただ神様の栄光のために」という「生きる意味」を教えられたのです。
神様は・・・その栄光を「この世の繁栄、権力」でも、第二の誘惑にあるように、「神殿から落ちること」でもなければ、もちろん「パン」によって表されたのではありませんでした。神様が表された栄光。それはイエス・キリストの十字架の上において、この世の深淵、暗闇に来ることによって、栄光を表されたのです。神の栄光とは、惨めで苦しく、悲惨で痛みを伴うものなのです。これが神様の栄光なのです。わたしたち人間が思う栄光とはまったく違う、真逆のものだったのです。私たちが生きる意味は、このイエス・キリストの十字架に見出すことができるでしょう。惨めで苦しみに死なれたイエス・キリストを見上げる時に、私たちは自分の生きる道を見つけるのだと思うのです。主イエス・キリストという方が私たちのために生きてくださった。命をかけてでも、あなたを愛していると神様は教えられました。
この出来事から生きる道を考える時。生きていくための価値観が、自分自身がもっている、「自分のため」に生きるという方向から、「神様のため」、そして「他者のために生きる」という価値観に変えられていくのだと思います。私たちが生きる意味、生きる価値観は、イエス・キリストの十字架を見上げる時に教えられるのです。
5: 誘惑に打ち勝たれた方
さて、今回のこの箇所において、イエス様が受けた悪魔との会話。このような出来事が私たちの現実では起こることはないと思います。私たちが直接、悪魔に出会い、悪魔と会話することはない、そのような経験をすることはないのだと思います。悪魔、誘惑する者が、わたしたちの目の前にきて、「わたしが悪魔です」「こんにちは」という姿で現れることはないでしょう。それほどわかりやすく悪魔はやってはこないのです。そんなにやさしい者ではないのです。むしろ、目に見えない、様々な形でいつも私たちの近くにいて、神様と私たちが引き離されるように、その関係をどのようにすれば断ち切ることができるのかを考え、働いているのです。
私たちの生きるこの現代においても確かに、誘惑という働きがあります。それは、今回イエス様が出会われたように、欲望を満たしたくなるようなもの、自己中心だけのうちで生きること、そのように神様から引き離し、関係を断ち切る働きは、私たちのすぐそばに数えきれないほどあるのです。
神様から私たちを引き離そうとする働き。私たちが自分ひとりだけで、この働きに打ち勝つことはできないでしょう。誘惑は大変大きなものであり、私たちはそのような誘惑に打ち勝つことができるほど強くはないのです。そしてだからこそ、そのためにこそ、イエス・キリストがその誘惑に出会われ、その誘惑に打ち勝たれたのであります。
私たちは、どのような時にあっても、このイエス・キリストの十字架を見上げて、救いの命を受けて、生きていきたいと思います。誘惑に陥る私たちですが、その私たちのために、イエス・キリストは十字架の上で命をかけて、わたしたちと神様をつなげてくださったのです。そして生きる道を示されているのです。
このあと、イエス様は、福音伝道の言葉として、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4:17)と語られました。私たちは、「悔い改める」ことが赦されているのです。それは、何度でも十字架に立ち返ることが赦されているということです。自己中心で、自分勝手な生き方、そのような価値観から、イエス・キリストの生き方、神を愛し、他者を愛するという生き方、その価値観を得て生きること、そのように方向転換することが赦されているのです。
イエス様はその誘惑に打ち勝たれました。そしてそれは十字架の上で確実なものとされたのです。私たちも、この十字架のイエス・キリストにつながり従っていきたいと思います。主は神様と私たちの関係をつながれました。私たち人間を愛し、今も愛し続けてくださっているのです。私たちは今、この十字架を見上げましょう。そしてそこに生きる意味、なんで生きているのかを考えたいと思います。「ただ神様の栄光のために」と言っても、その生き方は、さまざまだと思います。私たちは、自分が何をできるか、何をすることが、神様の御心なのか、日々考えて生きていきたいと思います。(笠井元)
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