1: 聖霊によって
聖書では悪魔という存在を「誘惑する者」というのです。そして誘惑とは、神様から人間を引き離す者と言えるのです。イエス様がバプテスマを受けたそのすぐ後の時に、誘惑する者が現れたのです。悪魔の誘惑は、神様と私たちを引き離すものです。神様を信じれば信じるほど、その誘惑の働きは激しくなっていくのです。
誘惑において悪魔が「神の子なら・・・」と言うようにイエス様は神の子なのです。人間であることは無力であり、弱く、痛みや苦しみの中にいるということです。イエス様にとって一番の誘惑は、人間であることをやめることです。それは他者のために生きることをやめるという誘惑なのです。
2: 人はパンだけで生きるのではない
誘惑の一つ目は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(3)となります。 この言葉は、私たちに生きる意味を教えているのです。人はパンだけで、そしてパンのために生きているのではないのです。食事をすることは大切なことですが私たちはそのため「だけ」に生きているのではないのです。イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と教えられます。
3: 深淵に落ちてこられた方
悪魔は「神殿の端から飛ぶという行為をもって、神様が共にいるということを証明したらどうだ」と言います。神様を信じることは、お金持ちになったり、なにか自分勝手な願いが叶うことはないのです。イエス様は神殿から飛び降りることでは、神様を証明なされなかったのです。イエス様が神様を表したのは、十字架の出来事によるのです。人生の痛み、深淵へと飛び落ちていくことで神様を表されたのです。私たちがどれほど苦しく、地獄のどん底にいるような時にあっても、イエス様はその隣に来てくださったのです。
4: なにを神とするのか
生きている中で一番大切なことは「何のために生きているのか」ということではないでしょうか。私は「ただ神様の栄光のため」と答えます。神様はイエス・キリストの十字架の上において「栄光」を表されたのです。神の栄光とは、惨めで苦しく、悲惨で痛みを伴うものなのです。イエス様が表された生きる価値観は「神様のため」、そして「他者のために生きる」という価値観です。
5: 誘惑に打ち勝たれた方
私たちは直接、悪魔に出会い会話することはないでしょう。目に見えていなくても確かに誘惑という働きは、私たちのすぐそばにあるのです。このあとイエス様は「悔い改めよ、天の国は近づいた」(4:17)と語られました。私たちは「悔い改める」ことが赦されているのです。イエス様は誘惑に打ち勝たれました。私たちは十字架のイエス・キリストに従っていきたいと思います。(笠井元)
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