1: 捕えられたヨハネ
今日の箇所では、まず、イエス様が、バプテスマのヨハネが捕えられたということを聞いた場面から始まります。イエス様の福音のために、道を整える者として現れたバプテスマのヨハネが捕えられたのです。ヨハネが捕えられた理由は、当時の権力者ヘロデ・アンティパスの自分勝手な理由によるものでした。
このことについて詳しくはマタイによる福音書の14章において記されていますが・・・少し説明しますと、当時ガリラヤ地方を治めていた領主ヘロデ・アンティパスが、自分の兄の妻ヘロディアを自分の妻としたことから始まったのです。このことに対してバプテスマのヨハネが「あの女と結婚することは律法で許されていない」(マタイ14:4)と強く非難したのでした。そして、このヨハネの非難を受けたヘロデ・アンティパスがバプテスマのヨハネを捕えたのでした。そしてこのあと、14章で、ヨハネはヘロディアの悪知恵によって、殺されていくのです。ヨハネは権力者のどこまでも自分勝手な行為によって捕えられ、殺されていったのでした。まさに権力者によって律法も人権も命の大切さも無視された暴力的行為です。
このようなことは、現代も変わらず起こっているのです。現在、日本においては「共謀罪」の法案を通そうとしています。「共謀罪」はテロリスト対策とされる法案ですが、別の意味として、権力者に気に入らない言葉は言ってはいけない、考えてもいけないということです。「社会が間違った方向に進んでいる」と言えば捕えられる、そのような言葉は握りつぶされてしまうということです。社会に対する批判や非難をすれば、その言葉や行為は「罪」であるとされてしまうのです。つまり、自分の思いや主張、その意見を言うこと自体ができなくなるということです。そのような社会は、声の大きい者が正しく、弱い者は正しくないとなり、小さな声は無視され、傷つけていく構造となるのです。
これは、どの社会でも変わることなく、今、すでに同様の構造が作りだされている場合が、とても多くなっているのです。会社でも学校でもママ友の中でも、そして教会でも同様の構造が作りだされているのです。結局は力を持っているものの言うことが正しいとされていく。聞かなければ暴力的行為によって傷つけられ、その出来事を見る者たちは、自分たちを守るために、「間違っている」とは言えなくなっていくのです。
みなさんは権力者に対して、「それは間違っている」と叫ぶことができるでしょうか。そのような勇気をもっているでしょうか。なぜ社会はこのような構図になっているのでしょうか。批判する者は、苦しみ、痛めつけられなければならないのでしょうか。そして、今日の箇所にありますように、なぜバプテスマのヨハネは死ななければならなかったのでしょうか。ヨハネが捕えられること。ここに神様の御心があるのでしょうか。今日の箇所で、確かに、バプテスマのヨハネは捕えられ、そして殺されていきます。聖書は、ここから何を教えているのでしょうか。
2: ガリラヤへ行かれた
2:1 異邦人から全世界へ
このヨハネの逮捕のことを聞いたイエス様は、伝道へと向かっていきます。ここでは、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」(12)と記されているので、イエス様が自らもヘロデに捕えられることのないように、ガリラヤへと逃げ出したとも感じます。しかしこの時、このガリラヤも、ヘロデ・アンティパスによって統治されていた地域でした。そのような意味では、現実にガリラヤに退くことで、逃げ隠れできたかといえば、まったくできていない。ただヘロデ・アンティパスの統治の中で移動しただけなのです。ここでイエス様がナザレを離れ、ガリラヤに退き、カファルナウムに住まわれました。それはイエス様が、これから新しい働きを始めていくことを教えています。イエス様がガリラヤから福音伝道を始められたことは、この福音が「異邦の地」へ、そして「全世界」に向けられたものであることを教えるのです。
イエス様が退かれたガリラヤは、15節に「異邦人のガリラヤ」とあるように、当時、異邦人の地であるという認識の場所でした。もともとガリラヤはイスラエルの領地であったのですが、紀元前8世紀にアッシリアによって北イスラエル王国が征服されて以来、外国の勢力によって支配され続けていた場所だったのです。そこでは人種、宗教、文化も混合状態となり、ユダヤ人からすれば「異邦の地」「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる場所となっていたのです。イエス様の伝道は、この「異邦人のガリラヤ」から始められたのです。そして、イエス様の福音伝道は、このガリラヤから始まり、全世界へと続いていくのです。
このマタイによる福音書では、28章において復活のイエス様による第宣教命令が記されています。マタイ28:18-20「18 わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
イエス様はここで、「すべての民をわたしの弟子としなさい」と言われました。神様の福音はユダヤにとどまらず、異邦人へ、そして全世界に向けられた福音なのです。イエス様は、ユダヤから異邦人、そして全世界の人に、その福音が届くことを望まれ、その宣教命令を語られたのです。
2:2 差別を受けた異邦人の地
そして、同様に「異邦人の地」とされるということ、それは当時のユダヤの社会の中では異教の地であり、足を踏み入れてもいけないと考えられる場所だったのです。つまり社会でいえば、だれも目を向けないところ、向けたくもないところ。人々から差別的に見られ、見捨てられたところなのです。そのような意味で、イエス様は差別を受けている「異邦人の地」から伝道を始められたと理解することができるのです。
イエス様は「異邦人の地、ガリラヤ」から伝道を始められました。それは小さき者、だれも目を向けないところ、つまり、罪びとや病人、そのようなところからイエス様の伝道は始められたのです。
3: 小さいところに来られる方
イエス様は、社会にあって弱い者、小さい者のところに来られました。それは権力者によって捕えられ、そして殺されていくバプテスマのヨハネの姿を思い起こさせるのです。バプテスマのヨハネはイエス様の先駆者、道を整える者としてきました。しかし、権力者の暴力的行為によって、捕えられ、殺されていくのです。そして、イエス様もまた、社会の暴力的行為として十字架の上で殺さていくのです。聖書は、このイエス・キリストの十字架に、神様の福音を表すのです。
イエス様はガリラヤにおいて福音を宣べ伝え始められた。それは罪人や病人、差別を受け、人間扱いされない人たちに目を向けられたということです。そして、その最大の出来事として十字架があるのです。
私たちの生きる、この世界には納得できないことがたくさんあります。皆さんも、苦しい現実の中で、神様に「なんでですか」と聞きたいことがたくさんあると思います。バプテスマのヨハネが捕えられていったということもその一つだと思うのです。なぜ、キリストの先駆者は殺されなければならなかったのでしょうか。イエス様は「異邦人の地」「社会の端っこ」に来られたのでした。「異邦人の地」「社会の端っこ」という場所に来られた。それは苦しみや困難の中、痛み苦しんでいる者と、「共に生きる者」となってくださったということなのです。「なぜ苦しまなければならないのでしょうか」という問いに、答えることはとても難しいことです。しかし、私たちは苦しみの中にあっても、イエス・キリストが共にいてくださるということにおいて希望をみることができるでしょう。
この出来事を私たちが自身において見るならば、自分自身の一番嫌いなところ、弱いところ、惨めなところだと感じているところに、イエス様が目を向けて、来てくださり、喜んでくださっていると言うことができるのです。
みなさんだれでも、少しは自分の嫌いなところはあるのではないでしょうか。自分の受け入れがたいところ、いわゆるコンプレックスがあるのではないでしょうか。
わたしは、この鼻の下にあるほくろが、鼻くそみたいに見えることがとても嫌いでした。これが小学生のころにはよくバカにされたので、とてもこのほくろが自分にあることを喜んで認めることはできませんでした。そのほかにも、髪の毛が固くて、思い通りの髪型にならないことや、足の短いこと、指も短いこと、もっとこうだったらというところがありました。それは今でもありますし、誰かに言われるととても悲しい気持ちになり、そこには劣等感を持つのです。このようなコンプレックスや劣等感は誰でも少しはもっているのだと思います。そして人に笑われることや、馬鹿にされることによって、いつのまにか自分自身を受け入れられなくなり、自分のすべてを否定してしまうことがあるのだと思います。
イエス様は、私たちのそのような「弱いところ」を受け入れてくださるのです。イエス・キリストは、私たちの弱さも、すべてを含めて愛しておられるのです。そして、だからこそ、私たちが自分自身の弱さにきちんと目を向けるときに、そこにイエス様の愛に出会うことができるのだと思います。
「すると主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)主は、わたしたちのところに来てくださいました。それは、私たちの弱さやを取り除く方ではなく、そのままを受け入れてくださる方なのです。
私たちは、どこを目指して生きているでしょうか。どのようになれば満足するのでしょうか。財産を得て、地位を得る。周りの人から認められ、みんなのあこがれの存在になることでしょうか。それが私たちの人生の目的でしょうか。それが私たちの目指す道なのでしょうか。それで本当に、心の中にある劣等感やコンプレックスが消えているのでしょうか。イエス様は、私たちに、「あなたの弱い所も、嫌いなところも、愛している」と言ってくださっているのです。イエス・キリストは「わたしはあなたを愛している」と語りかけてくださるのです。これが私たちに与えられている福音。神様の愛です。
4: 悔い改めよ
そして、イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17)と叫びました。悔い改めること。それは「方向転換」を意味します。「愛されている」ことを知る時、私たちはその生きる方向が逆転していくのだと思います。もはやだれかに「愛されるため」に生きるのではなく、「愛するために」に生きる道を進むのです。
それでは、愛する道とはどういうことでしょうか。
わたしたちは「神様の愛のために」と言って、自分が正しいと、他者を傷つけていることはないでしょうか。「なんであの人は、他者を大切にしないで、自分勝手にしているのだろう」「なんて自己中心なんだ」「あの人は意地悪だ」「神様の愛から離れている冷たい人だ」・・・「ちょっと一緒にいることはできない」「もはや関わることはやめておこう」と、考えていないでしょうか。神様の愛を教えるといって、「あなたは間違っている」「あなたの歩いている道は、悪魔の道だ」と他者を裁いていないでしょうか。
そのような時、人間は、ある意味、権力を振りかざして、ヨハネを捕え、イエス様を十字架につけた者となっているのかもしれません。人間は、自分では正しいと思っていても、いつの間にか、その正しさが、人を裁いているときがあるのです。
この前の祈祷会で学んだのですが、「悪い者」「悪」とされる者を、すぐさま私たちが滅ぼそうとするときに、人間は時々「神様を追い越した正義」を振りかざしてしまうことがあるのです。 人間が人間を傷つけることは正しいことではないでしょう。それは「悪いこと」かもしれません。しかし、そのような人を傷つける者、「悪い者」を、さらに、傷つけ、裁くことは、私たちにはゆるされていないのです。
悪口を言う者であれ、他者を愛さない者であれ、そしてテロリストであれ、権力を振りかざす者であれ・・・私たちは裁くことではなく愛することを求められているのです。もちろん、だれかが神様の愛から離れてしまっている時に、その道を軌道修正するために批判することが必要な時はあります。つまり、「悔い改める」ためにお互いに意見を言い、聞くことは大切なことです。しかし、私たちが歩むべき道は、その道に寄り添うのであり、裁くことではないのです。
イエス様は「異邦人のガリラヤ」へ行かれました。それは「間違った者」も、「わたしはあなたを愛している」と語り続けてくださっているということです。そして「悔い改めよ。天の国は近づいた」と教えてくださっているのです。キリストは私たちが「愛を知った者」として新しく生きること、「悔い改め」、「愛する道」を歩き出すことを願っています。イエス様は「わたしの愛を知って、歩めなさい」と語りかけているのです。
私たちは、日々、主の愛を受けて、「悔い改めて」いきたいと思います。自分の正しさではなく、神様の正しさを求めていきたいと思うのです。私たちが、主の愛を受けて、悔い改めるとき、私たちには何ができるのでしょうか。愛する道。その道が、どのような道となるのか、自分には何ができるのか、どのように歩いていくことができるのか、考えていきましょう。(笠井元)
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