1: ファラオとの交渉
モーセとアロンはファラオのもとに行き、解放のための交渉を始めます。しかし、最初のこの交渉でファラオの心は動くことはなく、むしろこれまで以上にイスラエルの民は苦しい状況に追い込まれることになります。
神様は3章でモーセにファラオにこのように言うように教えています。「ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」(出エジプト記 3:18)
この言葉に対し1節の言葉はだいぶ短い言葉となっています。「わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」(5:1)そして、3節の言葉は「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう。」(5:3)「そうしないと・・・」と後半部分が追加されています。
モーセとアロンは神様の言葉をきちんとは伝えていません。そこには神様に対する不忠実さとファラオに対する油断を感じます。
2: ファラオによる抑圧
ファラオは「そのようなことを言うのは時間があるからだ。体力も心も、時間にも余裕があるから、そんなことを考えることになるのだ」、つまり「怠けている」とするのです。そのためイスラエルの民にもっと厳しい強制労働を課すのです。何かを要求をすれば、それは怠けているとされます。このような状況にあるとき、人間は「要求すること」「意見すること」ができなくなるのです。
ファラオがイスラエルの民を痛めつけることは、モーセやアロン、イスラエルの下役に、反抗すること自体が間違っていると思わせます。
3: 誰を主とするのか
根本的問題として、イスラエルは誰に仕えるのかということが問われています。今日の箇所では「仕える」という言葉が7回使われています。そのいずれもがファラオが対象となっているのです。イスラエルは誰に仕えるのかと問われているのです。
ファラオ自身は「主など知らない」と言い、「主とは一体何者なのか」と問いかけるのです。私たちの主はだれでしょうか。自分が自分の「主」「ファラオ」となってはいないでしょうか。神様はモーセとアロンに、イスラエルの民が神様を礼拝することをファラオにお願いさせました。礼拝は神様を主とすることなのです。
4: 主となり続けられた神様
ファラオは心を頑なにし、民はこれまで以上に苦しめられ、モーセとアロンは信用もなくなってしまったのです。最悪の結果です。「なぜ災いをくだされるのですか」これはモーセだけではなく、イスラエルの民の叫びでしょう。神様はこの叫びを受け止められ、同時に「わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。」(6:1)と希望を与えます。神様は「あなたなど知らない」とは言われません。私たちを見捨てることはなく、主としておられ続けてくださるのです。私たちは誰に仕えるのでしょうか。(笠井元)
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