1.信じて御言葉に聴き続ける生き方
8章30節~31節で「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」と言われます。ユダヤ人たちはイエス様を信じたのですが、イエス様は信じた彼らとまだ議論を続けます。これはどういうことか?“信じる=信仰の完成”ではなく、人は主を信じてもなおひき続き主に教えられ続けなくてはならない、ものだと分かります。
2.父アブラハム
39節で再び彼らは「わたしたちの父はアブラハムです。」と言います。自分たちはアブラハムの子孫だ、神の祝福を独占するユダヤ民族だという思いが彼らにとってどれほど大きな誇りであったかが分かります。しかしイエス様は「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ」つまりアブラハムの子孫であるというだけでは、何の意味もない、偉大なアブラハムの子孫であるのならば、アブラハムと同じ業をしてこそ意味のあることなのだと、イエス様は言うのです。
3.人々の虚栄心
41節“姦淫によって生まれたのではありません”=両親が法的な婚姻関係にない状態で生まれたのではない(当時罪と言われた)、そういう罪のもとには生まれついておらず、律法にかなった生まれを受けたものです”という誇りです。今の自分がどのような人間であるか、でははなく、どのように生まれたのか、を誇ろうとしています。その誇りが長じて、最初は“父はアブラハム”と言っていたのが “わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です”とまで主張しだします。人間の虚栄心の限りなさが表れています。
4.父なる神のイメージ
私たちは“父”と聞いてどのようなイメージを持つのでしょうか。そのイメージは神のイメージとして正しいでしょうか。イエス様だけが、天の父を“わが父、アッバ”と呼ぶことのできるお方であり、イエス様だけが私たちに“わが父、アッバ”と呼ぶ権利を下さる方です。
5.神は愛する
42節「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。」
神は殺そうとされる神ではなく、愛の神である。神は命の神ということです。
本当の父を知っていれば、イエス様を愛するはずである。そして本当のキリスト者であれば人を愛するはずだ、という言葉が私たちに投げかけられています。
6.神に属する者
“神に属する”=ギリシア語 ek teou (from God)、“神から来たもの”という口語訳のほうが原文のニュアンスに近いようです。
“悪魔である父から出た者”=神から出た者ではない。神から来たお方(イエス・キリスト)を通してでしか、私たちは“神に属する者(神から来た者)”として神に聞き、神に近づくことはできません。(酒井朋宏)
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