1: 希望
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(4)
これは命のある限り神様に礼拝することを告白しています。ここに私たちの人生の意味があるのです。私たちはこれから何をして過ごすのか、先に何があるのかわからないときは、とても不安になります。生きる道がはっきりするとき、その道を歩いていくことが希望となるのです。そして、御言葉と祈りを共に頂く礼拝の時に、私たちは失うことのない希望を見るのです。
2: 災い 関係の不確かさ
5節に「災いの日」という言葉が続きます。「災い」の意味は、私たち人間がお互いを恐れること、その関係の不確かさを示しているのです。人間の関係の不確かさ、それはたとえ父と母という関係であったとしても、人間関係は壊れてしまうことがあるのです。人間は自己中心に生きています。これが人間の罪なのです。そしてそこに偽りと不確かな関係が生まれるのです。
私たちは隣人が悲しんでいるときに、共に悲しむことができるでしょうか。隣人と同じ立場に立つことがでるでしょうか。私たちは自分の安全を確かめてから隣の人にまったく別の立場から言葉をかけているのではないでしょうか。
3: イエス・キリストの来られたところ
私たち人間の関係の不確かさ偽りの中にあって、イエス・キリストは本当の隣人となってくださったのです。イエス・キリストは、私たち人間の「偽りの関係」の中に来て下さったのです。私たちが本当の関係を築いていくことができるために、人間の関係が「恐れ」ではなく、「希望」となるために来られたのです。
「主を待ち望め。」(14)キリストが、私たちの心のうちにきてくださるとき、私たち自身が変えられて、心を強くされるのです。今ある困難を、超えることのできない壁としてではなく、新しく成長するための試練と変えられていくのです。
4: 希望をいただく時
まもなく2016年度を終えます。教会は「キリストの体としての教会~共に苦しみ共に喜ぶ~」という標語の中で歩いてきました。一年間を振り返り、どのように過ごし事ができたでしょうか。
私たちはお互いに何度も何度も向き合い、苦しみも、喜びも、一緒に分かち合うことができる者と変えられていくのです。その関係が不完全であるからこそ喜びはなくなることがないのです。何度も壊れることがあっても、何度でも主がなおしてくださるのです。自分の心を開いて、お互いに向き合っていきたいと思います。その関係の間にイエス・キリストがきてくださることを信じていきましょう。(笠井元)
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