1: 日々の生活の中での応答
今日の箇所は、ペトロとアンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエス様に従い、弟子となっていったという場面です。今日の箇所の並行記事として、ルカによる福音書では5章にペトロ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネが弟子となる記事があります。ルカによる福音書でも、今日の箇所と同じように、イエス様が「あなたは人間をとる漁師となる」(ルカ5:10)と言い、ペトロたちを弟子としていくのですが、その内容は今日の箇所とはだいぶ異なった記事となっています。ルカによる福音書では、夜通し漁をして、それでも何もとれなかったペトロに、イエス様が「網を降ろしなさい」(5:4)と言います。ペトロは「何もとれなかったけれど、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と(5:5)半信半疑ですが、イエス様の言われた通りに網を降ろすのです。するとたくさんの魚がとれたのでした。
ペトロたちはこの奇跡に驚き、すべてを捨てて、イエス様に従ったのです。ルカによる福音書では、信じられない奇跡の出来事が起こされて、その出来事によってペトロたちがイエス様に従ったと、そのような記事になっています。
それに対して、今日のマタイの箇所では、特に何か奇跡的出来事が起こされたとは、全く記されていないのです。なんでこの4人がイエス様に従ったのか、その理由は記されていないのです。マタイでは、イエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19)と言われ、そのあとすぐにペトロとアンデレは従ったのです。ここにはほかに何も記されていない。そしてだからこそ、ここでこの二人の決断が強調されるのです。イエス様に「わたしについてきなさい」と招かれた。そしてそのイエス様に従ったのです。
このとき、ペトロとアンデレは海に網を打っていました。これは毎日二人が行っていた仕事でしょう。毎日、家からこの場に来て、この場で漁をして、そして家へと帰る。ペトロとアンデレは、そんな日々を過ごしていたのだと思います。この普段と何も変わることのない生活。その普段通りの生活の中に、突然、イエス様が現れ「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19)と言われたのです。イエス様は、二人の普段と何も変わることのない、日常生活のなかに来られたのです。そしてペトロとアンデレに出会い、呼び出されたのです。
ある本では、このことをイエス様と人間の関係が「交差」したと表現しています。ペトロとアンデレはこの言葉に従ったのです。そこに何か特別な奇跡的出来事があったというよりは、そこにイエス様の招きがあり、二人の決断があり、イエス様への応答をしたということです。このとき、二人の人生とイエス様が「交差」したのです。
二人はイエス様の何を知っていたのでしょうか。信仰とは・・・神様とは・・・救いとは・・・何かを知っていたでしょうか。何かを学び、理解して、従ったのではないのです。ただただ単純に、イエス様の呼び出しに応えたのです。そして、このイエス様との関係が交差するときに、二人の生活は劇的に変化していくのです。これからも漁師として同じことを繰り返すのではなく、神様に従う者とされたのです。
このイエス様の呼び出しは、私たちの日常においても向けられている招きなのです。イエス様は、このペトロとアンデレだけを特別に呼び出されたのではないのです。今、この時、イエス様は、私たち一人ひとりと出会い、向かい合い、呼び出し、応答を待っておられるのです。
私たちがこのイエス様に応答するために、何が必要なのでしょうか。知識や知恵、学びや理解や信仰でしょうか。このペトロとアンデレの姿から学ぶのは、決断です。イエス様の招きに応答すること。この応答によって、私たちの人生は大きく変えられるのです。決断して、一歩を踏み出す、神様を信じて飛び込む。信仰には、最後にはこの決断が必要なのです。一歩踏み出すことによって、神様のことを知る、そこから信仰が生まれるのです。
2: 海辺のほとりで
今日のこの舞台となったのは「ガリラヤ湖のほとり」とされます。この言葉は、口語訳では「ガリラヤの海辺」とされるのです。原語の意味としても、ここに使われている言葉は「湖」ではなく「海」となるのです。「海」というのは、当時の世界感のなかでは、人間を脅かす存在であり、「海」という言葉は悪魔的、虚無的なものを表すものでもありました。ここではその「海」にいた者が招かれたと見ることができるのです。恐ろしい存在、恐怖の中にいた者にイエス様は目を向けられたのです。イエス様は、そのような二人を「ご覧になった」のです。
そのまなざしの先には何が写っていたのでしょうか。日々の生活にいつも同じことを行っているただの漁師たちです。そこには特に何の変化もない日常生活です。しかし、そのたわいもない日常に、イエス様はその中にある人間の心の寂しさ、虚しさ、虚無を見つめられ、受け止められたのではないでしょうか。イエス様は、ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネのもつ、心の寂しさや恐れ、生きている虚しさに目を注いでくださったのです。
このペトロたちに見る、人間の本当の姿、人間の心のうちは、今、現代でも変わることがない姿だと思います。わたしたちの住むこの世界、ここには混乱と矛盾があり、私たちはその社会で日々恐れと虚しさを持って生きているのではないでしょうか。
今、世の中は「自分だけ」を見ていく社会へと加速しています。アメリカでは、トランプ氏が「アメリカファースト」という言葉を掲げ、アメリカがアメリカの利益のみを一番に考える国となっているのです。ただ自分たちのことだけを考えること。本当は、こんなことは言わなくても、だれかが呼びかけなくても、人間はだれもがそのような者なのだと思います。「アメリカファースト」とアメリカが言ってどうするのでしょうか。「自分は自分のためだけに生きる。」こんなことは大きな声で言うことでしょうか。そしてこのアメリカの姿勢に追従する日本も、国としてのこんな姿勢を見倣ってどうするのでしょうか。
本来、社会の指導者とは、「自分だけに目を向けるのではなく、他者にも目を向けよう」と言うべきではないのでしょうか。少なくとも幼稚園では「お友だちの心を考えましょう」と教えます。そして子どもたちもその大切さを理解します。
聖書は「自分のように隣人を愛しなさい」と教えています。
「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ。」(イザヤ1:15-17)
この聖書の主張が、本来の人間の生きるべき道なのではないでしょうか。しかし、現実は「自分のためだけ」を考える社会があるのです。そして、そこには混乱と恐れ、虚しさしか残らないのです。イエス様は、このような社会に生きる者に目を注がれたのです。日々、「自分のため」に生きなくてはならない人間を招いてくださったのです。
3: わたしについてきなさい
イエス様は「わたしについて来なさい。」(19)と言われました。イエス様の招きは、「わたし」と言われる、イエス・キリストについていくという招きなのです。イエス様の招きに応答しながらも、日常の生活は何も変わらないとき、そこには本当の応答があるのか、考えさせられるのです。
しかし、自分の人生のすべてをイエス様に委ねるということ、自分のこれまでの生き方を変えるということ、それだけの決断、この応答をすることは、そんなに簡単にできることではないでしょう。できれば、基本的には何も変わらず、ただイエス様の愛をいただいているということだけを信じたいものです。そのような私たちにイエス様は「わたしについて来なさい」と招かれているのです。わたしたちはこのイエス様の招きに応える決断をすることができるでしょうか。
この招きに対して、人間はこのように断っていくという話があります。
若い者は神様の招きに対して、「ちょっと待っていてください。今はまだ若すぎるので、もう少し経験を積んでからにしてください」「正しい判断をするための人生経験を積んだ時にあなたに仕えます」と言います。そして中年になった者は、「神様、あなたの招きはとてもうれしいことで、わたしはその招きをいただきたいと思います。ただ、今は、自分の生活が精いっぱいで、忙しいのです。もう少し待っていてください。この忙しさから抜け出したらあなたに仕える者となります。」と断るのです。そして老年になったときには、「神様、わたしがあなたに仕えるには、もはや年を取りすぎました。もはやあなたに仕えるだけの気力も体力もなくなってしまいました。どうかもっと若い人をえらんでください」と断るのです。
このほかにも、私たちが神様の断る理由はいくらでもあるのでしょう。「わたしについて来なさい」。イエス様はいつでも私たちにこのように招きの言葉をかけていてくださっているのです。招きに応えるのは、今、その決断をするのです。
「今」決断すること。それは様々な場面において、私たちに迫られている決断の時なのです。イエス様の招きと、一緒にしてよいのかわかりませんが、以前テレビで、電化製品を購入するときは、いつがよいのかということを話していました。
1月がよいのか、12月の末がいいのか、それとも年度末がいいのか・・・実は夏から秋にかけて新商品がでる可能性が高いので、その時とも言われていました。しかし、結局、電化製品はどんどん新しい物が作られ、いつ買っても損をした感じがするのです。もう少し待てば、もっと性能の良いものを買うことができたのに・・・と思うことになるでしょう。だから結局は「必要を感じた時」という結論でした。自分にとって必要だと思った「時」が決断の時だと言うのです。
イエス様の招きに応える時、決断するときも同じです。決断は「今」イエス様の招きを知った時なのです。
いつまでたっても、決断することがなければ、いつまでもイエス様の招きに応えることはないのです。私たちは「今」この時、イエス様に招かれている。そして主は、その招きに応答することを願っておられるのです。
4: 恐怖を越えて
イエス様は、私たちの応答を期待してくださっています。そして、その招きの言葉として「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(19)と語られているのです。「人間をとる漁師」とされる。それは、心に不安や恐怖を持つ者に目を向け、助け出すことではないでしょうか。この恐れと虚無の世界にあって、希望を失いつつある者に声をかけること、そしてイエス・キリストによる希望を伝えることではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちの心の虚しさや恐れに、目を向けられて、声をかけ、招いてくださっているのです。その招きは「わたしについてきなさい」という招き、そして「人間をとる漁師にしよう」という派遣なのです。
私たちはこのイエス・キリストの派遣の言葉を受け取りたいと思います。主が共にいてくださる中にあって、恐怖と虚しさのこの社会にのみ込まれるのではなく、立ち向かっていきたいと思うのです。自分が一番という社会に、「そうではない、貧しい者、弱い者、心に傷を負っている者、苦しみの中に生きている者に目を向けましょう」と声をあげ、叫び続けていきましょう。(笠井元)
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