1: モーセとアロンの系図
5章においてモーセとアロンはファラオとの交渉に失敗しました。そのような中で、6章ではモーセの再召命が行われます。そして今日の系図へと続くのです。「モーセとアロンの系図」は二人の立場をもう一度、理解させる意味があります。この系図と同じような系図が民数記26章に記されています。こちらではアロンとモーセ、ミリアムも加えられています。
今日の箇所20節に「アムラムは叔母ヨケベドを妻に迎えた。」(20)とありますが、レビ記18書において、おばとの結婚が禁止されていますので、そのため、70人訳聖書では、この箇所は「父の兄弟の娘」とされています。
2: モーセの揺れ動く権威
出エジプト記において、モーセの権威は揺れ動いています。最初は「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」(出エジプト2:14)と言われました。5章の場面。そして出エジプト後の15章、16章、17章でも民はモーセに不満を言い続けるのです。イスラエルの不満は、モーセの権威が揺れ動いていることを表しているのです。系図はモーセが確かな身分の者であり、神様から遣わされていることを確認させるのです。
3: 人間の心の弱さ
モーセとアロンの系図を見る時に、人間の心の弱さを見るのです。わたしたちは肩書に弱く、なかなか、その人の中身をみることで判断することができないのです。民はモーセに「だれがお前を我憐れの裁判官としたのか」と言いました。ここで弁護士バッチや、警察手帳、または水戸黄門の印籠のようなものでもあれば、だれもがその権威、権利を理解するでしょう。今日の箇所はモーセの権威と立場を確立するために、この系図が記されているのです。
神様から召された者であるかどうかを系図で判断するということには、確かに人間の弱さが見えるのです。
4: イエス・キリストの権威
権威が揺れ動いているという姿は、新約聖書におけるイエス様の姿を映し出してもいるとも言えるでしょう。新約聖書では同じようにイエス様の系図が記されています。多くの者は、イエス・キリストを権威ある者、救い主として信じることはできなかったのです。私たちは、どのようなものを判断材料として、救い主を探し求めているのでしょうか。血筋でしょうか。人々による評判でしょうか。その人の生き方や、言葉でしょうか。
私たちは自分自身を見るにしても、他者を見るにしても、神様の御言葉による価値観を持ち、またそれが完全ではないということを覚えて見ていきたいと思います。(笠井元)
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