1: 見捨てられた民
イザヤの53章はイエス・キリストの十字架を預言したとされる箇所です。イザヤ53章の記された時はバビロン捕囚期という、イスラエルにとって一番厳しい状況の時でした。南ユダ王国のほとんどの人々はバビロニアに捕虜として連れて行かれたのです。そして人々から「イスラエルの民は、神から見放された民」であると、あざけられたのでした。イスラエルの民は「神から見捨てられた民」のレッテルが貼られたのでした。
2: 弱さのなかに来られた方
当時バビロニアは経済的にも軍事的にも力を持っていました。バビロニアに連れてこられたイスラエルの人々はその経済力や、政治力というものを肌で感じ取っていたでしょう。もはや自分たちは「神から見捨てられた」のでありあきらめて、バビロニアの権力に頼ろうと考える人々もいたかもしれません。
聖書はそのようなこの世の権力や政治力とはまったく違う力、むしろ正反対である「弱さ」の中にこそ解放があると語るのです。そしてこの弱さの真ん中に来られたことを表す出来事がイエス・キリストの十字架なのです。
3: 罪を担い、執り成している方
イエス・キリストは十字架によって私たちの過ちを担い、同時に私たちを神様へと執り成していてくださっているのです。私たちは神様の前に立つことも、神様に目を向けることもできない者です。イエス様はそのような私たちを執り成していてくださっているのです。私たちはイエス様の執り成しによって神様へと目を向けていく者とされていくのです。
4: 弱い者となる
私たちが、イエス・キリストから受け取っていく十字架は、弱さの中に見る力であり、お互いの弱さを認め合う力です。
わたしたちは弱く小さい者です。「他者を受け入れる余裕は私にはない」と思うかもしれません。しかし、私たちが他者を受け入れるということは、自分が頑張ることではなく、ただただそのような弱い自分を愛してくださっている神様がおられることを認めること、そして同様に他者の存在を受け入れ、愛しておられる神様がいることを認めることなのです。
イエス様は十字架の痛みの中で、弱い者となられました。あざけられ、辱められ、殺されたのです。わたしたちはこのイエス・キリストの十字架の痛みをいただきたいと思います。そのとき私たちは自分の弱さを認め、そのうえで愛されている者として生きることができるのだと思います。私たちは、この受難週に主の十字架を覚えて日々の生活を過ごしていきましょう。(笠井元)
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