1: 唇に割礼のない者
モーセは「わたしは唇に割礼のない者です」(30)と言います。これはどのような意味をもつのでしょうか。「割礼」はユダヤの男性が包皮を切り取るという神様とアブラハムにおける「契約のしるし」としての儀式です。(創世記17:9-14)割礼は救いと信仰のしるしなのです。
モーセは自分の唇には割礼がないと言うのです。モーセは「吃音」、口に障害を持っていたと理解されることもあります。岩波訳では「口べた」だと記しています。「唇に割礼のない者」。それは自分の力の無力さを認識していることを表します。神様はこのモーセの弱さを補うためにアロンを遣わすのです。
2: 助け手
アロンは雄弁であり、モーセの代わりに語る者として遣わされました。助け手として雄弁な兄アロンが立てられました。助け手がいることは心強いことです。私たちにも多くの助け人が与えられています。私たちはこのことを忘れてはいないでしょうか。自分は自分だけの力で生きていると勘違いしてしまうことがあるのです。人間にとって「弱さ」というのは、一人では生きていけないことを教えられる大切な賜物です。「弱さ」は助け合うことを教えます。
3: 預言者アロン
これまでの関係とは少しちがう者として神様、モーセ、アロン、ファラオが表されるのです。モーセは神様の代わりとされ、そしてアロンはその預言者であると言います。
イスラエルにはこれから何人もの預言者が現れます。預言者とは、神様の御言葉を預かり語るものです。そこには神様と預言者という関係があります。しかし、ここではモーが神様の代わりであり、アロンはその言葉を神様の言葉として、ファラオに語るというのです。アロンはモーセから聞いた言葉を神様の言葉としてファラオに伝えるのです。
4: 神を知る
ファラオの心は頑にされます。そのためこれから様々な災いをもって、イスラエルの救いを起こされていくのです。神様の御業は、イスラエルの人々に神様の存在と、その慈しみを知らせます。
心を頑なにしたファラオもまた多くの災いを通して神様を知ったのです。しかしそれは肯定的な存在としてではなく、むしろ否定的であり、ファラオからすれば無理矢理心をこじ開けられイスラエルを解放させられた存在です。しかし、この姿には罪の中にある人間の心を神様が開いてくださることを見るのです。神様は多くの災い、別の意味では奇跡を起こして頑なな心の者の扉を開いていくのです。神様の救いの行為は、罪ある者であり、心の頑な者の心を開いていく行為なのです。 (笠井元)
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