主イエスの復活を祝う、イースターおめでとうございます。十字架において私たちの弱さと絶望と孤独に連帯し、死者の中から主イエスをよみがえらされ、愛といのちの勝利をもたらしたもう神のみ名をあがめます。今朝、司式者に読んでいただいた聖書箇所には、陰と光のような、はっきりしたコントラスト(対比)が描かれています。ユダヤ人を恐れ、閉じ篭っていた弟子たちの「恐れ」と復活された主イエスに出会った弟子たちの「喜び」です。「弟子たちはユダヤ人を恐れた」(19節)そして「弟子たちは主を見て喜んだ」(20節)。もう一つの対比は、戸を閉じて、鍵をかけて部屋に閉じこもっている弟子たちと、その閉じた戸を優しく突破して下さり(break through)、そのいのちを分かち合って下さった主イエスの存在と、他者の罪をゆるすように派遣されていくという「閉じ篭り」「引き篭り」とそこからの「解放」あるいは「内側へ内側へと向かう力」と「外側へ派遣される」というコントラストです。「主イエスはよみがえられた」という宣言を聞く私たちは、闇から光へ、閉じ篭りから、復活のいのちの分かち合いと広い世界へと招かれているのです。
1.緊急避難としての閉じ篭り
「その日、すなわち一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみなしめていた」(ヨハネ20:19a)。「その日」とはイエス様がよみがえられたあの日曜日のことです。しかし、なんと、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のでした。なぜなら、弟子たちは、イエス様が復活され、生きておられる、「主に出会った」というマグダラのマリアの言葉が信じられなかったからです。彼らはいまだに、恐れの闇に閉じ込められたままでした。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。何年か前に、もう何年も前から「引きこもり」ということが話題となっています。自分の部屋に入り、中から鍵をかけ、引きこもってしまう若者たちのことです。母親がドアの前に、食事をお盆に載せて置いておくと、それを取り入れ、食べたあと、また食器をドアの前に出しておくというのです。これは極端な例かもしれません。いや、もうずっと以前から、一緒に食事をしながらも、会話はなく、それぞれが自分の世界に引きこもっていたのかも知れません。傷つけられること、傷つくこと、人を傷つけることを恐れて部屋に閉じこもり、鍵をかけるという気持ちはだれもが経験していることではないでしょうか。そこが自分にとって一番安全な、安心できる場所なのです。「閉じこもり」、それは、自分と他者を傷つけることを恐れる優しさでしょう。それは、長い人生のヒトコマとして、一時的な緊急避難として、あっても良いことです。
2.2000年前の弟子たちの状況
「弟子たちはユダヤ人を恐れた」。では、私たちの目を2000年前に向けてみましょう。ユダヤ人の宗教的指導者たちがローマ総督の政治的力と結託して、弟子たちの愛するイエス様を十字架にかけて殺してしまったのです。迫害の手が今度は自分たちに及ぶかもしれないのです。恐ろしいことです。これは想像ですが、彼らの恐れはそれだけではありませんでした。しばらく前から弟子たちはイエスという人がわからなくなっていました。なぜ、イエスは武器を取ってイスラエル解放のために戦ってくれなかったのか。なぜ、主は栄光のダビデ王国を再建するために戦ってくれなかったのか。なぜ、非暴力を貫き、何の弁明もなしに十字架に付けられたのか。なぜ、イエスが語った憐れみ深い神は十字架の上で嘆き、苦しむイエスを救い出してくれなかったのか。「なぜ、なぜ、なぜ?」という問いが弟子たちを長いトンネルのような袋小路に陥れたのでした。「弟子たちは恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。そこだけが彼らの安全地帯でした。しかしそこの空気は何か澱んでいたのです。
3.今日の閉じ篭り
今日、若者たちだけが、人を傷つけること、傷つけられることを恐れて、引きこもるわけではありません。私たちもまた、たびたび自分の心を閉ざし、鍵をかけるのです。そうではありませんか? 夫婦喧嘩をすると、「もう口をきくまい」、「挨拶もしないぞ」と決意し、自分の中に閉じこもり、心の鍵をかけるのです。それは被害者意識というより、相手に対する嫌がらせ、一つの「復讐」あるいは「暴力」かも知れません。こうして、自分の中に閉じ篭り、引き篭もって心の平安を保つということは良くあることです。「恐れて、自分のおる所の戸をみなしめていた」。この言葉はここに集っている一人一人の姿を言い当てているのではないでしょうか。
目をもっと広い世界に向けてみることもできます。もっと大きな社会的、政治的な「引きこもり」もあるかもしれません。昨今の私たちの国と中国、韓国、北朝鮮との関係を考えると、私たちは欧米世界には開いていてもアジア諸国には閉じて、鍵をかけているように思えてなりません。あるいは、米国のトランプ大統領が「アメリカファースト」で、世界のことなど構っていられないという姿勢を示したかとおもったら、シリヤにミサイルを撃ち込みます。北朝鮮の閉じこもりにもミサイルを撃ち込もうかとなったら大事です。中国、ロシア、米国の大国主義。そして、狂気のような北朝鮮やシリヤ情勢です。わたしたちはどうなるだろうと恐れています。あるいは、英国がEUを脱退してしまいましたが、ヨーロッパ全体など構っている余裕はないというのでしょうか。ここにも「引き籠り」が見られます。日本の国も「教育勅語」や「愛国心」が語られるようになりました。日本企業が進出し、日本製品が世界に溢れる現実の中で、もう少し、相手の気持ちになって考えてみるという余裕を持っても良いのではないでしょうか。もし私たちが心を閉ざし、心の鍵をかけたら、相手の国々の民衆たちや政治家たちもそうしてしまうのではないでしょうか。確かに、私たちは傷つくことを恐れ、自分の部屋に閉じこもり、鍵をかけます。そこが一番安全な場所であると考えるのです。
4.突破して、手とわき腹との傷をお見せになる
しかし、素晴らしいことが起こりました。夕方の黄昏に霧がかかるような陰の中に、光が差し込んできたのです。驚くべき出来事が起こりました。「イエスが入ってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」のです。あの聞きなれた「シャローム」と呼びかけるみ声です。確かに、安全ではあっても、どこか息が詰まり、澱んだような閉塞状況のただ中に主イエスはそっと、しかし、力強く、来て下さったのです。「シャローム」。「弟子たちは主を見て喜んだ」。彼らは何を喜んだのでしょうか。私たちがしばしばそうであるように、良い成績を取れたからでしょうか。仕事が旨く行ったり、私の小さな働きが人々から評価されたからでしょうか。
そうではありません。聖書は証言します。「そして、手とわき腹との傷をお見せになった」。復活の主イエスは、十字架の苦難と孤独を味わい、人々に棄てられた経験をされたお方でした。ご自身十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたお方でした。聖書が語るのは、だれかが不思議なことに生き返ったというようなことではありません。十字架の死に至るまで人を愛し抜かれ、私たちの弱さと孤独に連帯して下さったあのお方がよみがえらされたのです。だからこそ喜びに溢れたのです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。「主を見て喜んだ」。人間は決して、一人で、引きこもって生きることはできないし、そうする必要もないのです。いのちというものは共にやり取りし、共に生きるものなのです。私は一人の小さな男の子を知っています。この子は自分の気持ちを良く表現する子です。お母さんに叱られたり、何か思い通りにならないと、「いじけた!」と言って隣の部屋に駆け込んでいきます。小さいのに「いじけた」という表現が何となく可笑しいのですが、それが、数分と持たないのです。あるいは、子どもたちは良く喧嘩をしますが、直ぐ仲直りします。小さい子どもの心はなんと柔らかく、いのちに溢れているのでしょうか。幼な子は一人では決して生きられないことを良く知っているのです。むろん、何かがあって当分引き籠ることと、脳の障碍などからくる「自閉症」とは区別しなくてはなりません。時間がかかるでしょう。しかし、主イエスはよみがえられた。 死や孤独や引きこもりが最後の結論ではなく、いのちの勝利と喜びと交わりとが皆さんお一人お一人に起こるのです。そして、そのようには決して思えない、見えない現実に絶望しかけたとしても、主イエスはその人の傍らにおられるのです。主は、かれらに、「手とわき腹との傷をお見せになっています」。
5.聖霊を受けよ
更に、素晴らしい言葉が続きます。「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。「聖霊を受けよ」。余り教会に縁のないかたは、ピンと来ないかもしれません。聖霊って何?と思われるでしょうか? しかし、 テレビで、「inspire the next!」という日立のコマーシャルを聞いたことはありませんか? あるいはホンダの自動車で Inspire というのがあります。ANA全日空は Inspiration of Japan ですか。私には先進技術を誇る企業が、inspire 「霊を吹き込む」という言葉をキャッチコピーにしていることに興味を覚えます。そうです。Inspiration!と、英語で言うと分かるような気がしませんか? 日立の「世界不思議発見」のコマーシャルは「inspire the next」、「次世代に新しい風を」と続きますが、inspire は、本来、霊を吹き込む、いのちの息吹を与える、感動の風をそよがせる、というような意味です。人に傷つき、人を傷つける私たちの日常生活の中で、身をまもるために引きこもり、閉じこもりがちな私たちが、主イエスの風を受け、新しいいのちを受け、主イエスのいのちの息吹を吹きかけられて世界へと派遣されていくのです。
「あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。何と恐ろしい言葉でしょうか。皆さん、人間の心はどんなにも頑なに、依怙地になることができるのです。そして、「赦せない」という苦しさが少なくとも自分自身の中に残ってしまうのです。「いじけた!」と言って落ち込んでも、数分ともたないようなあの幼児の心の軽やかさを私たちはどんどん失っていくのです。だからこそ、主イエスは今日もまた呼びかけられます。「聖霊を受けよ!」
そして、もし私たちが閉じた心を開くなら、そして人を赦すということ、この最も困難なことに向かって心を動かされるなら、それはまさに奇跡であり、主イエスの復活のいのちを、皆さんも経験し始めていると言って良いのです。(松見俊)
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