1: 教えの重要性
今日の最初の箇所23節を読みますと、イエス様がなされたことが見えてくるのです。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(23)
イエス様は、「教え」「宣べ伝え」「癒された」のです。イエス様がなされたことで、「福音を宣べ伝えた」こと、「病気を癒された」ということはイエス様がなされたということで、よく聞くことかもしれません。 今日はその二つの行為の前に「教えられた」という言葉がきます。そのような意味で、今日のこの箇所では、イエス様が「教えられた」ということを強く示しているのです。イエス様の教えがここで強調されていることは、マタイによる福音書においては、この後に、いわゆる「山上の説教」というイエス様の教えが記されているからだろうとも考えられます。「山上の説教」はイエス様が教えられた中でも、とても有名な教えです。マタイによる福音書では、この山上の説教をこれから学ぶことになるのです。そのような意味で、その前に、「イエス様が教えられた」ということが強調されたということは、意味のあることだと思います。
また、それと同時に、なぜイエス様の教えが強調されているのかを考える時に、この箇所が記された時の教会の状況に「教え」が必要であったとも考えられるのです。当時、マタイによる福音書が記されたときの教会では、・・・イエスを自らの主と信じて、キリスト者となったのですが、その信仰が、現実の生活と繋がっていなかったという人たちが大勢いたと考えられているのです。マタイの教会は、信仰と実際の生活がつながっていなかったのです。
一つの例として、この後のマタイの7章では、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(7:21)という言葉が語られているのです。この言葉は、とても厳しい言葉だと思うのです。私たちは「行い」によって救われるわけではないのです。しかし、信仰をいただきながらも、その生活はなにも変わることがないときに、私たちは本当の救い、福音を得ていると言うことができるのでしょうか。
先日の祈祷会では、松見先生より奨励をいただきましたが、その中で、「神の恵みを知り、それでもその恵みのうちに生きない者が、本当の罪人である。クリスチャンは神様の恵みを教えられたのだから、気を付けるべきだ」と教えられました。今日の箇所は、まさしく、主イエスの教えを聞くことによって、何を行うかを考えることの大切さを教えているのです。
2: 耳のある者は聞きなさい
マタイによる福音書では「耳のある者は聞きなさい」(11:15、13:18、13:44)という言葉が何度も出てきます。
わたしたちはイエス様の教えを聞いているでしょうか。最近は、年齢を重ねることによって言葉を聞くことがとても難しくなっている兄弟姉妹が増えてきています。教会として、そのような中で、福音を分かち合うために、説教の原稿を事前に渡したりと、できることを考えていきたいと思っています。私の父もすでに耳が聞こえなくなってきています。祖父も、祖母もであったのですので、いずれ、私自身もいずれなるのかな・・・とも時々思います。父によれば、耳は何も音が聞こえなくなっているというより、聞く必要のない音が聞こえてしまって、聞きたい音、言葉が聞くことができないと言っていました。必要のない雑音が聞こえてしまう。そのため、実際に聞きたい音や言葉が聞こえないというのです。人間は何気なく様々な音を聞いているのですが、実は、その耳は、いろいろな音の中で、必要な音と雑音を聞き分けて、言葉を聞いているのです。これは、まさに私たち人間が、神様の言葉を聞くための姿を表しているのではないかと思わされるのです。
神様はいつも私たちに話しかけてくださっているのです。神様の御言葉は、聖書から、またその他にも、隣人を通して、自然の働きから、いろいろなことを通して、語りかけてくださっているのです。わたしたちはこの神様の声を聞くことができているでしょうか。私たちは神様の声、その愛の御言葉、「あなたを愛している」という言葉を、聞くことができているでしょうか。
わたしたちの周りには、わたしたちを誘惑する雑音がたくさんあるのです。この世において、神様の福音を聞くことは、それほど簡単なことではないと思うのです。今は、インターネットやメディアの発達によって、聞きたいこと、知りたいことはなんでも検索すれば出てくる、そのような時代です。それがすべて悪いことだとは思わないのですが、それが正しいか、どうかはもはや関係なく、さまざまな情報があふれていることには危機感を感じます。この情報社会のなかで、何が、正しいのか、正しくないのかを見分けることは、とても困難なこととなっているのではないでしょうか。メディアが「正しい」といえば「正しいもの」となり、メディアが「この人は悪い人だ」と言えば、だれもがそのように信じてしまう社会となっているのではないでしょうか。
わたしたちの考え方ひとつをとってみても、それはいつの間にか、情報に流されているときがあるのだと思うのです。
そしてこのような情報が溢れる現代において、神様の言葉を聞くことの難しさを考えさせられるのです。聖書は「耳のある者は聞きなさい」と教えています。私たちは、聞くべき言葉を聞く、そのような耳を持っているでしょうか。
朝の祈祷会での話ですが、朝の祈祷会ではプリントを使って学びを行っていますが、その中で、学んだプリントを何度も読み返すことで、何度も何度も御言葉に出会うことができる、何度も神様の恵みを教えられると、言ってくださいました。プリントなので耳で聞いているわけではないのですが、確かに神様の福音を求め、聞いていると言えるのではないでしょうか。ここには、私たちが必要としている「耳」、神様が「耳のある者は聞きなさい」と言われた、「耳」があるのではないでしょうか。
3: 傷ついた心を癒される方
今日の箇所では、教えに続き、「福音を宣べ伝え」「ありとあらゆる病気や患いを癒された」と続きます。イエス様は教え、そして福音を宣べ伝えられました。ここで語られている福音は、私たちが今聞いている福音とは少し違うのかもしれません。私たちはイエス・キリストの十字架による死、そして復活を福音として聞いています。しかし、このときは、まだイエス様は生きています。イエス様が語られた福音は4章にある言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)という言葉であったのだと思うのです。私たちが聞いているイエスの十字架と復活による福音は、イエス・キリストという神様の御子による、絶対的な救いの出来事です。それに対して、このとき、イエス様が語られた「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉は、完全ではないというよりも、とても動的、つまり「悔い改め」という動き、応答を求めた、意味深い言葉であると思うのです。
イエス・キリストの福音に出会った私たちも「悔い改め」を必要とします。しかし、神様の愛の大きさから、時々そのことを忘れてしまうことがあるかもしれません。私たちは、この福音の大きさと、そしてだからこそ私たちは心から「悔い改める」ことができる、「悔い改める」ことが赦されているのだということを覚えておきたいと思います。
そして、この福音は、癒しと繋がります。 このあと24節ではこのように続きます。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。」(24)イエス・キリストは「癒された」。このような言葉を聞きますと、ただただ、自分の病気や、苦しみも癒してほしいと思うかもしれません。しかし、癒しとは、ただ病気を治すことだけではないのです。イエス・キリストがなされた癒しは、体と心と魂の癒しです。つまり肉体だけではなく、その心も魂も癒されたということなのです。 そして、なによりも、この心と魂の癒しが大切なのだと思うのです。
確かに体の痛みや病は、私たちの肉体を傷つけます。今日の箇所では、「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など」とあります。私自身「てんかん」なので、なんども癒されればな・・・と思うのです。しかし、体が傷けられる時、なによりも傷ついているのは「悪霊に取りつかれる」こと、つまり「心が傷つけられていく」ということなのです。心が傷つくということ、それは神様を神様として受け入れることができない者とされていくということ、そして自分を愛することができなくなること、そして他者から愛されていることも受け入れられなくなるということなのです。
私たちの本当の病は、体が癒されるだけでは回復したとは言えないのです。イエス・キリストの癒しは、この心と魂までも癒された癒しなのです。私たちの心が傷ついている時。私たちは自分の存在を喜べない者となってしまっているのです。神様はそのような私たちに「あなたは生きる価値ある者である」「その病気や弱さを含めて、あなたは尊い」と語りかけてくださっているのです。 そして、このことを教えているのが、主の教えであり、福音なのです。癒された者として生きる。愛されていることを喜んで生きる。「あなたは尊い」という言葉を聞き、この神様の愛を土台として生きる道を教えてくださっているのです。
4: キリストの愛をいただく
今日は、これから定期総会を持ちます。今年度の標語は「キリストに結び合わされて」としたいと思っています。キリストの体を造り上げるために、横のつながりを考えながらも、まずキリストを見上げて、キリストに結び合わさった者として、神様の愛をいただき、「尊い者」として愛されている者の集まりとしての教会を造り上げていきたいと思うのです。
そして、年間主題聖句としてエフェソから選び出しました。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)私たちは、まず、自分の弱さをも愛してくださっている神様がおられることを覚えましょう。神様は、私たちを価値ある存在として認めてくださっているのです。そしてだからこそ私たちは、お互いの弱さを受け入れ、その弱さを受け入れたいと思うのです。この教会がこれから成長するためには、神様の愛をいただいた者として生きること、そして同じように、隣人を愛し、補い合う者とされていくことが必要だと思うのです。
今、わたしたちは隣人に、自分の弱さや恐れ、自分にある苦しみをさらけ出す勇気があるでしょうか。そして隣人の弱さを受け入れる準備ができているでしょうか。神の兄弟姉妹として、どのような痛みも祈りあう準備ができているでしょうか。
私自身のことですが、最近、特に、他者の心の苦しみや痛みを理解すること、愛することの難しさを教えられています。他者の弱さ、欠点を受け入れることは、簡単ではないことを実感させられているのです。そして、そんな自分を嫌いになるときもあります。まさに最悪の悪循環です。いろいろと考えていましたが、答えはでませんでした。たぶん、何でもすぐ顔にでてしまうのでしょうか。そのような中でさまざまな人に「元気ですか?」「最近、あまり元気に見えないけど、お祈りしています」と声をかけて頂きました。そのような中で、多くの人に「愛されている」ことを教えられたのです。「自分が愛することができない」「他者を理解することができない」。ここでは、イエス・キリストが、十字架の上で苦しまれた方が抜けているのです。私は、愛することはできない。だから、そのような自分を受け入れられない。認めたくないと思ってしまったのです。
聖書が教える福音は、そのような弱さをもつ人間がイエス様を十字架につけたと教えます。そしてそれでも神様は、そのような私たちを愛してくださっているのです。イエス・キリストは、その痛みと死をもって、私たちに本当の愛を教えてくださったのです。イエス・キリストは「あなたは尊い存在である」「あなたを愛している」と語りかけてくださっているのです。他者を愛することができない自分でも、それでも愛されている、それはキリストが命をかけてくださった出来事であるのです。
神様は、私たちを愛してくださっているのです。主イエス・キリストを裏切り、十字架につけた私たちを愛してくださっているのです。そして、私たちは、自分自身を受け入れられなくなる時に、自分を受け入れてくださるイエス・キリストによる兄弟姉妹がいることを覚えましょう。私たちはイエス・キリストに愛され、そしてその愛につながる兄弟姉妹に愛されているのです。
私たちは、これから共に祈り続けていきたいと思います。そして自分の弱さや痛みを分かち合いましょう。わたしたちは、この一年、そのように自分の痛みや苦しみ、そして弱さを表すことができる教会、そして様々な思いを受け入れあうことができる教会を目指して、共に祈りあっていきたいと思います。(笠井元)
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