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2017.4.30 「名脇役バルナバ」 (全文) 使徒言行録11:19-26 

 映画やテレビドラマでは、名脇役が登場します。主役を引き立て、味のある演技をします。主演女優や男優の名前は分かりますが、名脇役は、名前は良く知らなくても、顔を見たら、ああ、あの人かと分かります。主役と脇役はチームプレーで、お互いを生かし合います。そのような名脇役の一人に「バルナバ」という初代教会のクリスチャンがいます。パウロは新約聖書に残されている手紙も沢山書いているいわば「主役」ですが、バルナバはパウロの「脇役」として素晴らしい働きをしたのです。今朝は、このバルナバに注目しましょう。

 

1.バルナバ:パウロを探し出し、教会に繋げる

 司会者に読んでいただいた使徒言行録11:24~25によれば、「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」とあります。後にパウロとなるサウロは教会を迫害していたのですが、復活のイエス様に出会い、伝道者となりました。彼がキリスト教会の一員になろうとしたとき、なにしろ「前科」がありますので、多くの信徒たちはパウロを恐れて、仲間にすることに難色をしめしました。そのときに、パウロを教会に執成し、人がバルナバでした。当時、サウロの傍らに立つことは勇気のいることでした。下手をすると、バルナバの評価も落ちてしまう危険があったからです。しかし、バルナバはパウロの傍らに立ちました。

 使徒言行録11:19以下によれば、ユダヤ人ではない、いわゆる異邦人がイエス様の福音を信じたというので、「本当かなあ」と疑心暗鬼になったエルサレム教会はアンティオケ教会に派遣したのが、バルナバという人でした。彼は心の開かれた人でして、「バルナバはそこに到着すると、神の恵みが異邦人たちにも与えられた事実を見て喜び、そして、固い決意を持って主から離れることのないようにと、皆に勧めたのです。そして、最近回心したのですが、教会が恐れて教会になかなか結びつかないパウロをわざわざ、タルソまで捜しにいったのです。もし、このバルナバがいなければ、パウロは世に出ることはできなかったと思います。

 

2.第一回伝道旅行でパウロに同行する

 物語を少し進めてみましょう。13:1~3によれば、「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当らせるために。そこで、彼らは断食をして祈り、二人の上に手を置いて出発させた」とあります。第一次伝道旅行と呼ばれているものです。彼らは地中海のキプロス島に出かけ、伝道します。使徒言行録4:36によれば、バルナバは、もともとはこのキプロス島の出身者であったようです。彼らはキプロス島から、現在のトルコに渡り、イコニオンで伝道しました。数年前この辺りを旅行してきましたが、現在はコンヤと呼ばれています。富士山のような火山が郊外に2つあり、美しい街でした。そこに一泊してきました。現在ではトルコで面積の一番広い都市で、イスラム教の中心地の宗教都市となっています。イコニオムでは、彼らの働きにより、大勢のユダヤ人やギリシヤ人が信仰に入りました。しかし、信じようとしないユダヤ人の迫害に合い、彼らは、リストラとデルベの街に逃げました。リストラでは足の悪い人が癒されたことをきっかけに、群集が熱狂して、集まってきて、バルナバをギリシヤ神話のゼウス、そしてパウロを主に話す人だったので、「ヘルメス」と呼んだと言われています。ヘルメスは女性用用品のブランドですね。ここでは主役と脇役が交替したような感じですが、このようにパウロとバルナバは互いに助け合い、生かし合う名コンビでした。

 

3.マルコ・ヨハネの傍らに立つバルナバ

 バルナバとパウロはこのような名コンビでした。バルナバはどちらかというと、パウロの傍らに立ち続けた脇役でした。しかし、ある時、衝突が起こりました。そのときの様子が、使徒言行録15:36~40に描かれています。第二次伝道旅行の始まりの場面です。「数日の後、パウロはバルナバに言った。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って、兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか』。信仰はその信仰を持ち続けること、教会に繋がっていることが重要なのです。「バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れていくべきではないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らは別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島に向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、出発した」。ここでは、バルナバはマルコ・ヨハネの傍らにいようとするのです。敗者復活戦があっても「よかろうもん」ということでしょうか。パウロはあれほどバルナバに世話になった、いわば借りがあるのですから、多少妥協をしてバルナバの顔を立てても良いと思うのですが、パウロはそのような妥協はしません。しかし、バルナバも妥協しません。彼はパウロと袂を分かってマルコと一緒に出掛けたのです。仕事に、特に、伝道という働きで妥協しないパウロにも感心しますが、皆さんは、どう考えるでしょうか。私はこのようなバルナバに深い共感を覚えます。この場では、彼は一度失敗したマルコの傍らに立ったのです。マルコ・ヨハネは、ペテロの弟子であったとも言われ、バルナバのいとこであり、同じキプロス出身であったようです。

 

4.バルナバ:慰めの子

 それでは、バルナバが登場する最初の場面に戻りましょう。使徒言行録4:34~37です。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ - 「慰めの子」という意味 - と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持てきて使徒たちの足元に置いた」。彼のあだ名はバル・ナバ=慰めの子です。これはヘブライ語ですが、新約聖書はギリシヤ語で書かれていますので、「慰め」はパラクレーシスで、これは「かたわらに呼び出されること」を意味しています。「慰める」ということは傍らに呼び出され、その人と共におり、その人を支え、弁護してあげることです。バルナバはまさにバルナバであり、必要なときにはパウロの傍らにおり、彼を執り成し、弁護します。マルコ・ヨハネの傍らにいる必要があるときには、パウロと激論をして、あえてマルコの傍らにいます。これは後日談ですが、パウロはマルコの真意を知り、和解し、マルコはローマの獄中でパウロに仕えていたと、コロサイ4:10に書かれています。また、これは伝説であって、歴史的に確かめることはできませんが、このマルコがその師ペトロから聞いたイエス様の物語を「マルコによる福音書」にまとめたとも言われています。もし、あの時、バルナバがあえてパウロと衝突して、マルコ・ヨハネの傍らにいなければ、その後、パウロに仕えることも福音書を書くこともなかったかもしれません。このことでは、パウロはバルナバに一本取られたというか、名脇役バルナバの面目躍如です。皆さんの傍らにだれが寄り添っているでしょうか?皆さんはだれの傍らに寄り添っているのでしょうか?ある人と寄り添うことは時には強さと忍耐が必要なのです。皆さんは決して一人ではありません。だれかが寄り添っていてくれるのです。皆さんは兄弟姉妹たちを一人にしてはいけません。誰かに寄り添うことができるのです。

 

5.傍らにいます聖霊:弁護者

 最後に「傍らにいます神」である「聖霊」に触れます。パラクレーシスから由来する「パラクレートス」という言葉がヨハネ福音書に登場します。十字架で殺されるイエス様の約束の言葉です。ヨハネ14:15~17「わたしは父にお願いしよう。父は別に弁護者(助け主、慰め主)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。ヨハネ14:26「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。16:7「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。こうして、聖霊は、私たち、皆さんたちの傍らに呼び出され、私たちを弁護し、慰めるお方なのです。主イエスは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)と言われ、「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)と言われ、皆さんお一人お一人に与えられている聖霊を通して、私たち一人一人の傍らにいてくださるのです。これが、高齢化し、しばしば病気になり、また、人生の方向性が見えなくなる私たちの支えであり、平安の源です。

 バルナバはまさに、時にはパウロと必要と思えば、時にはマルコ・ヨハネの傍らにいる名脇役であり、名コンビでした。聖霊なる神は、私たちのただ中にいます神であり、私たちの傍らにいて、名コンビを組んでくださる神です。この事実を信仰を持って受け止め、信仰に固く立ち、心に平安と喜びが与えられるように、祈りましょう。(松見俊)