1: この世の悲しみ
今日の箇所はまず、「悲しむ人々は、幸いである」(4)と語ります。説教を作るときに、この「悲しみ」について少し考えてみました。この世における「悲しみ」とはいったい何なのでしょうか。結論として「人間関係」が、私たちが生きていく中で「悲しみ」や「喜び」にとても大きな影響を与えているのだと思ったのです。
幼稚園は4月から新入園児が登園していますが、最初のころは、幼稚園に入る時に大泣きする子どもがいます。初めてお母さんと離れて過ごすのです。不安がいっぱいなのでしょう。最初はよくわからずにまったく泣かなかった子どもが、一週間ぐらいしてから、お母さんと離されなければならない、しかも、集団生活として、お友だちと一緒に過ごさなければならないことに気づいていくことで、泣き出す子もいます。幼稚園の子どもたちにとっては、これまでのお母さんとの関係が変わっていくこと、また、新しいお友だちや先生たちとの出会いや関わりを作っていくということによって「喜び」や「悲しみ」という感情が生まれているのだと思うのです。幼稚園生はお友だちができれば、その生活が楽しいと感じていきます。そしてそれは私たち大人でも、変わることなく、一緒にいることができる人との関係ができるときに、安心して、楽しく過ごすことができるようになると思うのです。
しかし、その関係が崩壊するとき、壊れてしまう時に、心は大きな傷を負うことになるでしょう。
そして、わたしたち人間にとってなによりも大きな「別れ」、一番大きな悲しみは、「死」であると言うことができるのではないのでしょうか。キリストを信じる者としては、イエス・キリストの復活によって「死」は「完全な別れ」ではなく、神の御許に行くことであり、主の愛に向かうこと、希望の出来事であると言います。しかし、いくら、私たちが「死」は、神様の御許に召されたことであると理解していても、この世における別れには変わりないでしょう。「死」は心に痛みを負う出来事です。この悲しみを悲しみとして、その感情を認め、理解することはとても大切なことだと思うのです。
また、現代では、インターネットなどの中で関係を作る人が増えていますが、ある意味その関係は、いつでも断ち切ることができる関係であり、だからこそ、傷を負うことのない人間関係とも言えるのです。つまり、悲しむことのない関係です。傷を負わない関係です。この世には、完全な信頼に基づいた、人間関係を作ることができるでしょうか。この世には悲しみが満ちているのです。今、挙げました悲しみは、ほんの一部です。ある意味、この世に生きる私たちは、悲しみのうちに生きているとも言えます。
そしてそれでも、今日の箇所では、そのような悲しみのうちにある者は「幸いである」と言うのです。そして、それは「その人たちは慰められる。」(4)からであると言うのです。
2: イエスの悲しみ
以前、わたしのもとに相談に来た方がいました。その方は、父親も母親も社会的地位のある方々で、その大きな期待のもと、その期待に応えることができなかった。そのために、様々な虐待を受けていたということでした。わたしと相談をしているとき、そこにも、父親、母親が押しかけてきたほどでした。親との関係が崩壊していることは、人間にとって、どれほど苦しいことでしょうか。それはもはやすべての人間に見捨てられたと感じるのではないでしょうか。人間関係が、完全に崩壊している状態となってしまっていたのです。そのような中で「神様はあなたを見捨ててはいない」、「神様はあなたを愛している」という言葉を語っても、どこか虚しく、現実として、そのことを理解し、受け入れることはできませんでした。
「神様はすべての人間を見捨てることはない」「あなたを愛している」。この神様の愛を、神様との関係があることを、私たちはどのように伝え、語っていくべきか、そしてどのように表すのか考えさせられるのです。
「神様はすべての人間、誰一人として、見捨てることはない」この神様の愛が、私たちに与えられている福音、喜びの知らせなのです。しかし、ただ一人、神様からも完全に見捨てられた人間がいます。それはイエス・キリストです。主イエス・キリストは、十字架の上で死なれました。それはただ死なれたのではなく、多くの人々にののしられ、あざけられ、辱められて死んでいったのです。そしてなによりも、イエス・キリストは、神様に見捨てられたのです。イエス・キリストは十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのでしょうか」(マタイ27:46)と叫ばれて死んでいきました。
これほどの大きな悲しみがあるでしょうか。この世界を造り、命を造り、今もすべての人間を生かして、養ってくださっている方が、イエス・キリストを見捨てられたのです。神様に見捨てられること、これほどの悲しみがあるでしょうか。イエス・キリストは神様に見捨てられた。それは、神様によって、その関係が断ち切られた。悲しみのどん底、ありえないほどの痛み、完全なる絶望に突き落とされたのです。
そのイエス・キリストが語られた言葉。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(4)この言葉はイエス・キリストだけが語ることができる言葉なのです。イエス・キリスト以外のだれも、この言葉を語ることはできないのだと思うのです。誰よりも、大きな悲しみを経験されたイエス・キリストの言葉だからこそ、慰めがあり、私たちの心に光を与えてくださる言葉となるのです。
主イエスの知らない悲しみはこの世にはないのです。どこに行っても、どのような苦しみに出会っても、そこにはキリストの歩かれた足跡があるのです。私たちはどれほどの悲しみのなかにあっても、その傍らにはイエス・キリストがいてくださるのです。ここに神様の愛があるのです。
3: 慰められる
今日の箇所では「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と語ります。この「慰められる」という言葉の原語の意味では「自分の傍らに呼び寄せる」という意味をもっており、そこから「助ける」「励ます」「慰める」という意味となっていったのです。悲しむ者が慰められることは、「だれかが、その悲しみの傍らに立ってくださる」ということ、そして「助け」「励まして」くださるということなのです。「主が慰めてくださる」ということは、「一人では乗り越えることはできないほどの困難であっても、主イエス・キリストが傍らに立ち、励まして、助けてくださる」ということです。
主イエス・キリストは、自らが、神様に捨てられる者とされることによって、どのような悲しみのうちにある者の傍らに立つ者となられたのです。私たちの救いは、主が共におられることを知ることから始まっていくのです。
私たちがどれほどの悲しみのうちにあっても、主イエスは傍らに立ってくださるのです。私たちは見捨てられたのではないのです。私たちは、絶望の淵、命の果てにいると感じていても、私たちの傍らには、イエス・キリストという希望があるのです。
4: 傍らに立つ方
そして「慰め」とは「傍らに立つ」ということです。そしてこの「傍らに立つ」という言葉から「弁護者」、聖書で言うところの「聖霊」の意味を教える言葉が発生しているのです。神様は、主イエス・キリストによってその愛を表され、その聖霊を通して、場所も時間も越えて、私たちの傍らに立つ方のなられているのです。
ヨハネ14:16-18
「14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」
イエス・キリストは、弁護者である聖霊を送ってくださっているのです。そして「私たちをみなしごにはしない」と教えられているのです。イエス・キリスト、その聖霊はいつでも私たちのことを知り、私たちの傍らに立っていてくださっているのです。イエス・キリストは、聖霊として、私たちがいつどこにいても、その傍らにいてくださるのです。悲しみの中にある私たち、自分は一人でしかないと孤独感の中に生きている私たちの隣にいてくださるのです。
私たちは、悲しみのときにこそ、人間関係が崩壊していくときにこそ、それでもイエス・キリストがいてくださる、その存在、その働きに出会いましょう。イエス様は私たちに「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」と語りかけてくださっているのです。主イエスは、私たちが悲しみの時、そこには絶望だけがあるのではなく、そこには希望があることを教えているのです。私たちの悲しみは、悲しみで終わるのではないのです。
イエス・キリストは十字架の内にあって死に、そして神様から見捨てられた者となりました。しかし、その死は絶望のなかに終わるのではなく、そこから復活という新しい命が創造されたのです。主イエスは神様によって見捨てられ、そしてまた、神様から新しい命の初穂として選びだされたのでした。この希望の主が私たちの傍らに立っていてくださるのです。
最後に一か所聖書を読みます。
ヨハネの黙示録21:3-4
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(笠井元)