1: この世の悲しみ
「悲しみ」について少し考えてみました。この世における「悲しみ」とはいったい何なのだろうか。「人間関係」による悲しみ、人間関係が崩壊するとき、心は大きな傷を負うことになるでしょう。今はインターネットなどの中で関係を作る人が増えていますが、その関係はいつでも断ち切ることができる関係であり、傷を負うことのない悲しむことのない人間関係と言えるのです。また、本来一番に人間にとって必要とされる「衣・食・住」を失うことは肉体的に大きな痛み、悲しみです。また、人間にとってなによりも一番大きな悲しみは「死」、「別れ」であると言えるでしょう。この世は悲しみが満ちているのです。
今日の箇所では、そのような悲しみのうちにある者は「幸いである」それは「その人たちは慰められる。」(4)と言うのです。
2: イエスの悲しみ
「神様はすべての人間を見捨てることはない」。この神様の愛が福音です。しかし、ただ一人、神様からも完全に見捨てられた人間、それがイエス・キリストです。イエス・キリストは十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのでしょうか」(マタイ27:46)と叫ばれて死んでいきました。神様によって、絶望に突き落とされたイエス・キリストが、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(4)と語るのです。これはイエス・キリストだけが語ることができる、本当の慰めの言葉なのではないでしょうか。私たちはどれほどの悲しみのなかにあっても、その傍らにはイエス・キリストがいてくださるのです。
3: 慰められる
「慰められる」は原語の意味では「自分の傍らに呼び寄せる」という意味をもっています。悲しむ者が慰められることは、「だれかが、その悲しみの傍らに立ってくださる」ということ、そして「助け」「励まして」くださるということなのです。
私たちがどれほどの悲しみのうちにあっても、主イエスは傍らに立ってくださるのです。私たちは見捨てられたのではない。私たちは、絶望の淵、命の果てにいるのではない。私たちには、希望があるのです。
4: 傍らに立つ方
「傍らに立つ」という言葉から「弁護者」、聖書で言うところの「聖霊」の意味を教える言葉が発生しているのです。神様は、主イエス・キリストによってその愛を表され、聖霊を通して場所も時間も越えて、私たちの傍らに立つ方のなられているのです。イエス・キリストは、聖霊として、私たちがいつどこにいても、その傍らにいてくださるのです。イエス・キリストの死は絶望のなかに終わるのではなく、復活という新しい命が創造されたのです。(笠井元)