1. 塵がぶよとなる
人間は「土の塵」から創造されました。その「塵」が「ぶよ」に変えられたのです。それは人間の命の根源が打ち砕かれたと感じさせるのです。「ぶよ」とはもともとは害虫全般を指す言葉であり、厄介で、不快な存在を表します。「塵」が「ぶよ」とされたということは、人間の命の根源が「不快なもの」になってしまったのです。
人間は塵から造られ、生まれ、そして死に、また塵へと返されるのです。(創世記3:19、コヘレト3:20 、ヨブ10:9 、詩編104:29)その「塵」が「すべてぶよとなった」(13)のです。「すべてが」です。この出来事は人間がどこからきて、どこに返るのか、つまり神様によって創造され、神様の御許に戻るという、命の根底にある希望を打ち砕く出来事としての災いなのです。
2. 魔術師たちの告白
魔術師はこの業を「神の指の働きである」と認めたのです。神様に対抗していた者が、神様を告白する者と変えられていくのです。それでもファラオの心は頑なで、その言葉を聞くことはなかったのです。私たちの心の中にも、魔術師のように神様を認める心と、ファラオのように神様を認めない頑なさと、どちらもあるように思うのです。
3. この状況の支配者
アブの災いにおいて神様はエジプトとイスラエルとを区別されました。これは最終的に、エジプトの初子を打たれ、イスラエルの民は過ぎ越されたことをイメージさせます。主なる神が、この状況を支配しておられ、死と命を区別される。そのように支配している者を表しているのです。
神様はこの時、この場面を支配しイスラエルを区別されたのです。それはまた「わたしがこの地のただ中にいる」と言うのです。神様は、どこかで私たちを眺めておられる方ではなく、そのただなかにきていてくださるのです。
4. 荒れ果てる 一匹も残らない
神様の業によって、エジプトは荒れ果てたのです。「荒れ果てた」という言葉は、ただアブが大発生して、国が荒れ果てたということを語るための言葉としては、強烈すぎる言葉です。この言葉は、このあと「エジプトの長子が打たれる」場面で「滅ぼす」という言葉として用いられます。
同様に、最後の言葉27節の言葉では、あぶは「一匹も残らなかった」と言います。この言葉は、14章のイスラエルの民が海の中を歩いたあと、ファラオの軍隊が海にのみ込まれた時の言葉、14:28に語られる「一人も残らなかった」と、同じ言葉なのです。アブの災いは、このあと起こる、出エジプトの出来事をイメージさせます。
5. モーセとファラオの交渉
今日の箇所の特徴として、モーセとアロンとファラオの交渉がされているのです。しかし結局ファラオは頑迷になり、イスラエルを去らせなかったのです。わたしたち自身もどれだけ神様との約束を破ってきたでしょうか。信仰を与えられながらも、その信仰から離れてしまう。私たちはその繰り返しの中で生きているのでしょう。私たちは、自分には何度も悔い改める必要があること、悔い改めることが赦されていることを覚えましょう。(笠井元)