テモテへの手紙の解説
①テモテとパウロ
「テモテへの手紙」は、エペソ教会に牧会伝道者として遣わされていたテモテへ、パウロが書いたものであると述べられています。
テモテの信仰は、祖母と母から受け継いだものでした。祖母と母に宿った純真な信仰が、テモテにも受け継がれていると、パウロはこの手紙の冒頭で述べています。テモテは、パウロの2回目の伝道旅行にも同伴したことがありました。主にあって忠実な人で評判も良く、いわゆる将来有望な人であったようです。
しかしそんなテモテも、この時は困難に直面していたようです。パウロがテモテへの手紙1の中で、テモテの健康や胃を気遣っていることからも、テモテが強いストレスを抱えていたことが伺えます。テモテは、教会をたてあげるその牧会の現場で、苦悩していたのでしょう。
パウロはそのテモテに手紙を送り、しっかりと信仰を守り宣教に励むよう語っています。
しかもそれは、「やってみるといいよ」というような提案ではありません。厳かに命じています。神の御前で、キリスト・イエスの御前で命じています。そこで念頭に置かれているのは、イエスの再臨と御国の到来です。イエス・キリストが再び来られ、生きている者と死んだ者を裁く、その終末の時に向かって、あなたの務めをしっかりと果たし、人生を走り抜きなさいとパウロは言っています。
パウロはこの手紙を書いたとき、投獄されていました。そして彼は、自分の死が近い事を悟っていました。この後彼は処刑されて、実際に私たちが知る限り、このテモテへの手紙2が彼の最後の手紙となっています。
そんな、投獄されて死を目の前にする中でもパウロは、ここにあるようにテモテや教会に向けて手紙を書き、力強く御言葉を宣べ伝え、イエスを主と信じる人々を励まし続けました。彼はまさにこの手紙で言っているように、折が悪いその時にも、最後まで御言葉を宣べ伝え続けた人でした。
②パウロに重なる喜友名先生の姿
私はこのパウロの姿を思うとき、私の推薦教会(東風平教会)の喜友名朝順という前牧師を思い出します。喜友名先生は心臓の病気を患い、半年ほど入退院を繰り返して闘病生活を送りました。その間も東風平教会の牧師として、入院時以外は講壇に立ち、また入院中も教会と付属保育園のことを気にかけていました。
2015年の3月18日(水曜日)、喜友名先生は教会の敷地内にある牧師館で家族に看取られて亡くなりました。その日、夜の祈祷会で喜友名先生は、熱くメッセージを語り、そして玄関先にまで出て、笑顔で手を振って教会員を見送ったそうです。息を引き取ったのは、その数時間後でした。
この時私は仕事でシンガポールにいましたが、休暇で日本に帰るために空港で飛行機を待っているところでした。翌日地元に帰り、東風平教会に行き、喜友名先生を見送りました。それからほとんど毎日教会に通い、教会の体制づくりや保育園の会計業務等に明け暮れ、そこで初めて、喜友名先生の苦労を知りました。また、神学校で喜友名先生に教えを受けていた方と出会い、神学校での喜友名先生の様子を聞きました。喜友名先生の口癖は、「命をかけているか」だったそうです。そのような事を言う喜友名先生を私は知りませんでした。この時初めて、本当の喜友名先生の信仰、熱い情熱を知ったように思います。
本当に喜友名先生は、最後の瞬間まで御言葉を宣べ伝え、生涯を主とともに歩んだ人でした。
それから数ヶ月経った頃、私はふと喜友名先生の事を思い出しました。そして喜友名先生の、いつも主と共にいて、最後の瞬間まで御言葉を宣べ伝えた人生が、他のどんな人生よりも素晴らしく思いました。
献身をするべきか迷っていた私は、この時、牧師になることを決心しました。喜友名先生の信仰、生前の言葉、そしてその生き様が、私を励まし、力強く背中を押してくれました。
パウロからの手紙を受け取ったテモテも、どれほど励まされたことでしょうか。パウロの信仰と情熱、力強い言葉、そして彼の生き様に、本当に力づけられたことでしょう。そして私たちもまた、この手紙を読む度に励まされ、力強く背中を押されます。
今の私たちと世界の状況
① 聖書の教えから離れているこの世
しかし私たちはやはり、この世界で信仰を守り、信仰生活を送ることに困難を覚えるのではないでしょうか。毎週の礼拝を守ることでさえ、困難な状況があります。ましてや御言葉を宣べ伝えるなんて、どこでどうやってするのでしょう?多くの人は神様の話をしたがりません。聖書の話を持ち出すと、耳を塞いでしまいます。特にここ最近は、世界中が、人々の心が、聖書の教えとは反対の方向に向って行ってるように思えます。聖書の語る愛や平和から、どんどん遠ざかっています。そんな中で御言葉を語ることは、ますます困難になっています。
ではなぜ人々は、真理から目を背け、聖書の語る、健全な教えを聞こうとしないのでしょうか。
② 映画の例え
ここで一つ、例え話をしてみたいと思います。想像してみてください。
あなたは映画を見るため、映画館に来たとします。そこでは色々な映画が上映されていますが、アクション映画を見ることにしました。中に入り、真ん中のちょうどいい位置の席に座りました。周りには他のお客さんもたくさんいます。さて、映画が始まりました。そしてこの映画の見所である戦闘シーンになりました。そのシーンでは、敵が次々にやられて死んでいっています。さぁ、そこであなたは映画館の真ん中で立ち上がって叫びました
「人殺しはダメー!暴力はダメー!」
さて、いったい何人があなたの声を聞いてくれるでしょうか?・・・1人も聞いてくれないと思います。それどころか、あなたは人々に取り押さえられて、映画館の外にはじき出されるはずです。
あなたの訴えは間違っていたのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。「人殺しをしてはいけない」・・・正しい教えです。誰もが「その通りだ」と頷く、いたって健全な教えです。ではなぜ人々はあなたの訴えを聞かず、あなたは外につまみ出されたのでしょうか?・・・そうですね、映画を見ているからです。
映画はストーリーが決まっています。映画を見ている人は、そのストーリーをそのまま楽しんでいます。それに対して、「あれは悪い事だ」、「これはしてはいけない」というようにあなたが健全な教えを語ったところで、誰も聞きはしません。それを語るタイミングではないのです。折が悪かったのです。
③ 例え話の解説(映画館は社会だ)
さて、私たちは今、映画館の中にいるわけではありませんね。自由に語ることができるし、人々に排除される心配も無いはずです。しかし私たちは、自分の信仰を貫き、信仰生活を守るとき、また聖書の教えを語り、御言葉を宣べ伝えようとするとき、どうも折の悪さを感じてしまうと思います。それは、私たちの生きるこの社会が、映画館の中から抜け出せていないからではないでしょうか・・・?
私たち含め多くの人々は、自分の中では健全な教えを知っており、正しく生きようとしています。しかし、自分とはあまり関係が無いような遠くの出来事、例えばテレビの向こうの話や、また全国規模、世界規模の壮大な事柄に関しては、あたかもストーリーが決まっているかのように思い込み、「これは映画の話だから」と言うように、「これは他人の事だから」とか、「他の家庭の話だから」、「他の国の話だから」、あるいは、「政治の話だから」と言って、ただそれを黙って眺めていることがあると思います。映画を見ているのと一緒です。そこで立ち上がって「これはいけない事だ。ストーリーを変えろ!」だなんてとても言えない、むしろ言うべきではない、そんな暗黙の了解が人々の中にあると思います。
そんな時に人々は、そこで行われている事を正当化し、自分を守ろうとします。
「ストーリーが決まってるんだから、しょうがないじゃないか」「みんなそう思っているなら、それが正しいんだろう」「自分を守るためなんだ。悪くないよね?」 そう言って、自分が罪悪感を感じないように、自分に都合がいいように物事を解釈していきます。
人々はそうやって、真理から離れていくのです。聖書の語る本当の真理や、健全な教えから離れていくのです。この動きは、個人的な話でとどまっているのではありません。政府が歴史をねじ曲げ、人々を真理から遠ざけることがなされています。メディアは嘘を垂れ流し、権力者は真実を語りません。この動きは今や、世界中でエスカレートしていってます。
今日の聖書箇所にはこうあります。
3~4節「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話のほうにそれて行くようになります。」
今の社会状況はまさに、この聖書が語っているとおりではないでしょうか。
④ 教会への警告
私たちがさらに注意しなければならないのは、この事が何も教会の外だけの話ではないということです。パウロはこの手紙で、教会内部について警告しているのです。人々は自分に都合のいい、耳障りのいい説教をしてくれる、そういう教師たちを好き勝手に寄せ集めるようになるとパウロは言っています。
私たちは、信仰者である自分を映画館の椅子に座らせて、スクリーンに映る社会を傍観してはいないでしょうか。スクリーンの向こうの社会には、聖書の教えは適用されないと決めつけてはいないでしょうか。そんな時私たちは、自分の中でイエス様の教えや聖霊の働きを制限し、主をあなどることになるのです。そしていつの間にか、耳に優しい、自分が聞きたいメッセージだけを聞き、真理から耳を背けて、作り話のほうに逸れて行くことになる。
御言葉に立ち、御言葉を語る
① 私たちに必要な御言葉
では私たちは、どうすればいいのでしょう。
2節にこうあります。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」
パウロはテモテに、御言葉を宣べ伝えること、そして十分に教えることを命じています。教会の人々には、御言葉が必要なのです。それも、忍耐強く、十分に教えられなければなりません。
つまりは私たちに必要なのは御言葉です。聖書が何を語っているのかを、十分に聞いていくことが必要なのです。
御言葉を語るとは、人々をとがめ、戒め、励ますことなのだと、ここでパウロは言っています。
「とがめる」とは、過ちを指摘して、罪を明らかにするということです。私たちが御言葉を聞くとき、そこではまず私たちの罪が明らかにされるはずです。
ここでパウロは「裁きなさい」とは言っていません。裁くのは神様であり、テモテでも、私たちの誰かでもありません。私たちがするべきは、自分の罪に気づくこと、そして真理からそれて行っている隣人に、罪を気づかせる事です。
さらに御言葉は、私たちを戒めます。過ちをくり返さぬよう、罪を悔い改め、罪に留まらないようにと、聖書は教えています。
しかし私たちは、とがめられ、戒められるときに、その教えに従いきれない自分を思い知らされます。以前悔い改めたはずの罪を、また犯してしまっている自分がいます。同じ過ちを繰り返してしまっています。そんな私たちは、自分の罪深さを嘆かざるをえないような存在です。
しかし御言葉は、私たちを嘆きで終わらせるのではありません。御言葉には励ましがあります。
御言葉が語るのは、イエス・キリストです。へりくだって私たちのところに来てくださり、人となり、私たちの罪を背負い十字架に付けられた方。そして3日目によみがえり、今も生きて私たちと共におられるイエス・キリストを、聖書は証ししています。
とがめられ、戒められてなお、罪を犯してしまう私たちを、主が愛し、イエスの十字架によって赦してくださいました。そしてこのイエスが、罪と死に打ち勝って、復活し、今も私たちと共におられます。これほどの慰め、これほどの励ましが他にあるでしょうか。
この御言葉が真理であり、そしてイエス・キリストが真理なのです。イエスはこう言っています。「私は道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ:14:6)
② 真理を知る私たち
私たちは、このイエス・キリストを知っています。真理を知っています。だから私たちは、どんなに世の中が作り話のほうにそれようとも、また自分自身、道を見失っても、聖書に立ち帰ることで、真理を見出し、正しい道を歩むことができるのです。混乱する社会の中でも、御言葉によって、しっかりと真理に立つことができるのです。
そしてこの真理は、私たちだけのものでは無いはずです。1匹の羊をも見捨てないイエス・キリストは、1人も漏らすことなく、全ての人のために十字架につけられました。
だからこそ私たちは、多くの人がこの真理を知って、救われるために、隣人に御言葉を宣べ伝えるのです。
御言葉を宣べ伝えるのは、何も牧師や教師だけではありません。一人一人与えられた賜物をもって、それぞれのやり方、それぞれの働きでキリストを証しするとき、それは御言葉を宣べ伝えているのです。年老いて、体もうまく動かない、自分には奉仕も何もできないと、そう思ってる人がいるかもしれません。でもその方がここで座っているだけで、どれほど多くの方が励まされている事でしょうか。杖を突きながらも毎週教会に来て、いつも礼拝にいる。それだけで、キリストを証しし、御言葉を宣べ伝えているのです。
5節でパウロは、テモテに対してこう言っています。
「福音宣教者の仕事に励み、自分の務めをはたしなさい。」
テモテは宣教者としての務めが与えられていました。私たちもそれぞれに、主から与えられた務めがあります。私たちそれぞれがその務めに励み、御言葉を宣べ伝えていくこと、それを主は喜んでくださり、望んでおられます。そしてこの宣教の業は、時と場所に縛られるようなものではありません。御言葉の力は、時の善し悪しによって左右されるような、その程度のものではないのです。
抑圧や搾取、対立、争い、そのようなものが渦巻いているこの世界の中でも、主は私たちを、その力ある御言葉によって、強く雄々しく立たせてくださいます。例え折が悪くても、私たちは御言葉を聞き、御言葉を宣べ伝えるのです。(安里道直)