1. 自然のなかにおける災い
これまで「血の災い」「蛙の災い」「ぶよの災い」、そして「あぶの災い」と起こされてきました。今日の箇所では「疫病」と「はれ物(皮膚病)」が起こされます。
これまでの災いを自然現象として見ていくときに、ナイル川に赤潮が発生したことを「血の災い」とし、そこから魚などの大量死によって、ナイル川から逃げ出した蛙が、エジプト人の家屋に浸入してきた。そして、その蛙たちが死ぬことによって、そこに「ぶよ」、「あぶ」がやってきたと見ることができるのです。そして、今日の、「疫病」「皮膚病」の発生は、この「ぶよ」と「あぶ」の発生により、伝染病が流行したと見ることができます。
神様は、出エジプトのために災いを起こされていった。しかしそれは自然に反する出来事というよりは、自然の流れとして神様の御業が表されていったと見ることができるのです。
2. 疫病「デベル」
「疫病の災い」が起こされました。「疫病」「デベル」という言葉は、旧約聖書では基本的には神様の裁きに関連する言葉として使われている言葉なのです。イスラエルに対しても、また異邦人に対しても、「疫病」は神の裁きとして下される言葉として使われているのです。神様は「疫病の災い」を起こされたのです。つまり、エジプトに神様の裁きが下されたということです。
3. 人間の責任の大きさ
神様は災いとして多くの家畜を殺されたのです。災いから、ファラオの罪、私たち人間の罪の重さを教えられるのです。人間の間違った判断のために、動物たちに災いがふりかかったのです。
人間の生き方は、多くの自然や生き物にも影響を及ぼしていく、この世界の端から端まで、すべての出来事と繋がっているのです。わたしたちは自分の行為、判断による責任の大きさを理解する必要があるのです。自分のすることで、どれだけの人が傷ついているのか、神様の造りだされた世界が破壊されているのか、私たちはきちんと知り、受け止め、悔い改める必要があるのです。
4. 人間の限界と神の御業
「はれ物の災い」。つまり皮膚病という災いは、現在においても人間がおびえる大きな病の一つです。それは病気の感染の原因、経路、潜伏期間、伝染力などがわからないからでしょう。
皮膚病の災いが起こされた時に、ついに「魔術師」がモーセの前に立つことができなくなったのです。これはただ神様対魔術師で神様が勝ったということではないのです。これは神様の業に対する人間の限界を見ることができるのです。
人間には限界があります。それは「こうなったのは、このためだ」と理解すること、対処方法についてもです。この世に、人間の「想定外」の出来事は必ずあるのです。人間には「わからないこと」「理解できないこと」があるのです。それは希望を持つべきことでもあります。人間には限界があり、そして神様はその思いを超えたところで働いていてくださるのです。わたしたちは必要以上の恐れをもつこともなければ、自分がなんでもできると傲慢になることもないのです。そして私たちの思いを超えたところで働く神様がおられるという、希望を持つことができるのではないでしょうか。(笠井元)