1: 自分の心から他者へ
3節から今日の箇所に向けて見ていきますと、自分自身に向けた言葉から、外に向けた言葉として語られていくということが分かるのです。
「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な人々」「義に飢え乾く」という言葉は、自分の心の問題と言うことができるでしょう。次の「憐れみ深い」「心の清さ」とは、自分と他者とのかかわりにおいて求められることなのです。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」これは、私たちの自分自身だけの問題ではなく、世界とのかかわり、人々とのかかわりの中での言葉なのです。
2: 平和を実現することに無関心な時
この社会は今平和であることよりも、お金を儲けること、人よりもよい生活をすることばかりが求められているのではないでしょうか。わたしは、今日の言葉を聞く時に、自分が生きる社会が平和であってはほしいけれど、自分が平和を作りだす者となるとまでは考えていなかったことを教えられました。「平和を実現する」ことに無関心であり、自分の目の前の生活がよりよくなるとだけを考えていると、その小さな間違った思いが、いつの間にか、大きな罪の渦に巻き込まれていくのです。
3: 神様の前に力を捨てる
神様が私たちに望まれている平和。それは「平安」であるということです。イエス・キリストがなされたことは、権威や権力をもつことではなく、惨めな姿で十字架の上で死んだということです。イエス・キリストの姿は神様の前に自らの力を捨て、神様に従った姿でした。
わたしたちが本当に「平安」となることは、権力や富を持つこと、そのために競争し続けることではなく、ただ神様の前に、自分の力を捨て従う者となることなのです。自分の力ではなく、神様の愛に委ねる時、私たちは本当の平安をいただくのです。私たちが「平和を実現する者となる」、それは神様の前に自分の力を捨てることから始まるのです。
4: 関係の中で広げていく平安
私たちはお互いの関係にあって「平安」であるためには、神様から「平安」を受け取る必要があるのです。わたしたちは自分の心の中だけで、イエス・キリストからいただいた「平安」を、留めておくのではなく、お互いの関係の中で、平安を広げていくように導かれているのです。私たちにはイエス・キリストによる「平安」が注ぎこまれているのです。この恵みに導かれて、共に祈り、共に支え合う者として、「平和を実現する者」とされていきたいましょう。(笠井元)