1: 自分の心から他者へ
皆さんとこれまでマタイによる福音書を、共に見てきました。そして現在は5章に入り、山上の説教と呼ばれる、とても有名なイエス様の教えを学んでいます。その中でも、今日の部分を含めた、最初の部分は、「こういう人は幸いである」という、イエス様の言葉が語られます。これは、ただ、「幸いである」と語られたというよりも、イエス様が、「幸いなるかな」「幸いがあるように」と祝福された言葉でもあるのです。イエス様は、「幸いがありますように」と、祝福され、励まされたのでした。このイエス様の祝福の言葉の中で、今日は、このように語られました。9節「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(5:9)この祝福の言葉は、3節から今日の箇所に向けて見ていきますと、自分自身に向けた言葉から、外に向けた言葉として語られていくということが分かるのです。
最初の「心の貧しい者」、次の「悲しむ」という言葉は、一人一人の心の中を指している言葉ということができます。イエス様が一人ひとりの心を、祝福し、励ましているのです。そしてまた「柔和な人々」「義に飢え乾く」という言葉も、自分の心のこと言うことができるでしょう。ここから次の「憐れみ深い」ということ、そして、「心の清い」という言葉は、自分と、他者との関係、かかわりにおいて求められることと考えられるのです。このように、最初は「心が貧しい人」というように、私たち自分自身の心の問題を取り上げていた言葉が、「憐れみ深い」という言葉として、他者へと向けられていくことがわかるのです。心の貧しい者が、主イエスの祝福に満たされて、その恵みのうちに、自分の外へと目を向ける者とされていくのです。イエス・キリストが、私たちの心の貧しさを癒してくださった。神様の愛に私たちの心は満たされ、周りの人々へと目が向けられていくのです。
そして、私たちに今日の御言葉が語られるのです。「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(5:9)これは、私たちの自分自身だけの問題ではありません。世界とのかかわり、人々とのかかわりの中での問題なのです。「心の貧しい者」「悲しむ者」として、自分のことだけで精一杯だった、私たち人間が、イエス様に受け入れられて、愛されて、自分以外のことにも目を向ける者とされていく。今日の箇所は、そのような私たち、イエス様に愛された者が、導かれ、歩む道を、示しているのです。
2: 平和を実現することに無関心な時
聖書は「平和を実現する人々は幸いである」と教えます。皆さんは、この世界が「平和であること」を望んでいるでしょうか。この問いに、ほとんどの人が、「私は平和であることを望み、求めている」答えると思うのです。しかしながら、それでもこの社会は今、「平和であること」よりも、お金を儲けること、人よりもよい生活をすることばかりが求められているのではないでしょうか。 私たちもまた、社会に平和が訪れることも求めながらも、しかしその前に、まず富や権威を求めてしまっているのかもしれません。この世界が平和であるように・・・と望みながらも、その前に・・・自分が良い生活ができるように、自分が幸せであるように、自分が・・・と考えてしまっているのではないでしょうか。わたしは、今日の言葉「平和を実現する者」という言葉を聞く時に、それが、自分の事柄というよりも、もっと遠く、はるかかなたのこととして聞こえてしまったのです。つまり、「平和を実現する」ことは自分自身の出来事としてではなく、だれかがしてくれるのではないか、だれかがしてくれることを願いたい・・・と、それくらいにしか思えていなかったのです。
自分が生きる社会が平和であってはほしいけれど、自分が平和を作りだす者となるとまでは考えられなかったのです。皆さんは、「平和を実現する」ことが、どれほど自分自身の事柄として聞くことができているでしょうか。それが、無関係、無関心とまでは言わなくても、平和を実現するのが自分自身だと思っているでしょうか。
単純に「平和」という言葉の反対が「戦争」だとして、ただ「戦争がしたい」「他者を傷つけたい」と考えている人は、それほど多いとは思わないのです。しかし、実際に戦争は起きるのです。そして今も起きているのです。人間には、自己中心と無関心という、心の隙間に、間違った心、闇の部分、つまり罪があるのです。そして、この小さな間違った思いが、多くの人々を悲しみと痛みの出来事に向かわせていくのです。
かつて、日本が関わった戦争においても、最初からだれかを傷つけたいと願っていた人がどれだけいたのでしょうか。それはほんの一握りの人間だけではないでしょうか。しかし、そのように積極的に人を傷つけたいと思っていなくても、いつの間にか、国家の方針として、戦争に参加させられていたのでした。そして、多くの人々の大切な命が失われていったのです。大きな国家の力、権力の前に、気づいた時にはもはや無力な者となっていたのです。
「平和を実現する」ことを自分のこととして考え、そのために生きるのではなく、無関心であり、自分の目の前の生活がよりよくなるとだけを考えていると、その小さな間違った思いが、いつの間にか、大きな罪の渦に巻き込まれていく。これが、人間が作りだす、間違った世界、平和ではない状況なのです。
3: 平安であること
聖書は「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(9)と教えるのです。アメリカの前大統領であるオバマ氏は、大統領になった時に、ノーベル平和賞を受賞しました。それは、期待をこめた受賞ということです。この出来事にはとても違和感を持ちましたが・・・オバマ氏が大統領という権力者となり、つまり、核兵器を縮小させることができる立場となり、その立場にあって、そのようにしたいと言ったことが評価されたということです。
大統領という権威ある立場で、核兵器を縮小させたいと言うことに意味があったとされるのです。それは、ある意味、権力、権威に期待している。それが、世間一般の人々の価値観だということでしょう。社会的な権力、富と地位によって、平和を実現することができるとされる、そのような人々が、本当に神の子とされるのでしょうか。神様は、今日の御言葉において、そんなことを言っているのでしょうか。神様は私たちに、平和を実現するために、社会的権威と地位を手に入れることを求められているのでしょうか。
ここで語られる平和の意味、それには、もちろん文字通り、「平和」ということ、戦争がないという意味もあります。しかしそれに加えて、人と人との関係における平和を意味しているのです。つまり、人と人との間、自分と他者の間において、平和であるということです。 そしてそれは「平安である」ということです。この「平安」という言葉に、人と人、他者との関係も含まれると言うことができるのです。神様が私たちに望まれている平和。それは「平安」であるということです。それは、自分の心が、「平安」であるということだけではありません。隣にいる人の心が「平安」であることを望むこと。そして、世界に「平安」が訪れることを希望することでしょう。「平安」、ヘブライ語でいうところの「シャローム」という言葉は、日々の挨拶の言葉でもあり、「健康」とか「繁栄」という意味を含めた言葉でありました。私たちは、お互いの「平安」、つまり「健康」とか「繁栄」、そして、世界の「健康」、「繁栄」まさに、「世界に平和」が満ちるように、求めるように教えられているのです。
「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(9)これは、「平和を実現するから・・・あなたは神の子と呼ばれる」という意味ではありません。そうではなく、「あなたは神様の子とされたから、だから平和を実現しなさい」と、つまり、神様が与えてくださっている平安の中で生きることが望まれているのです
平和を実現する者、神様の子とされることは、イエス・キリストによる神様の愛を受け取ることから始まります。イエス・キリストは平和の主として、私たちのもとへ来てくださいました。そして、イエス・キリストがなされたことは、権威や権力をもつことではなく、惨めな姿で十字架の上で死んだということです。このイエス・キリストの姿は死ぬまで、その命をかけてまで、神様の前に自らの力を捨て、神様に従った姿でした。このキリストの行為は、世の権力や富に、力を持って打ち勝ったのではなく、無力な者として、その価値観を逆転された行為でした。
わたしたちが本当に「平安」となることは、権力や富を持つこと、そのために競争し続けることではなく、ただ神様の前に、自分の力を捨て、従う者となることなのです。自分の力ではなく、神様の愛に委ねる時、私たちは本当の平安をいただくのです。神様の子とされ、平和を実現する者とされていくということは、神様の前に自分の力を捨て、ただ神様の愛を信じて受け入れ、その愛に生きることから始まるのです。私たちが「平和を実現する者となる」、それは神様の前に、自分の力を捨てることからはじまるのです。
4: 関係の中で
そして、この神様からの「平安」を受け取るときに、私たちは、人と人との関係における平和、自分と、他者との関係において、「平安」であること、その実現が神様から導かれているということが出来るのです。私たちがお互いの関係にあって「平安」であるためには、神様から、まず「平安」を受け取る必要があるのです。
神学者のD.ボンヘッファーは、このように語っています。「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。彼は、自分自身と交わりとをただ傷つけるだけである。・・・交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。『わたしが死ななければならないなら、死においてわたしはひとりではない。わたしが苦しむなら、彼ら(教会)がわたしと共に苦しむのである』・・・われわれは、ただ交わりの中にいるときにのみひとりであることができ、ただひとりであるもののみが交わりの中で生きることができる。」
これは、イエス・キリストに繋がっていない中での、人間の集団の危険性が語られているのです。イエス・キリストに繋がり、神様が私たちのために死に、生きたということを土台とすることの必要性を言っているのです。つまり神様の前に力を捨て、神様の愛を受け取る必要性です。わたしたちは、一人で自分の心の中で、イエス・キリストからいただいた、「平和」「平安」を、留めておいてはいけないのです。お互いの関係の中で、その恵みを成長させて、信仰を、支えあい、平安を広げていくように、神様に導かれ、召されているのです。
わたしたちには、イエス・キリストの恵みが、すでに与えられ、その「平安」が注ぎこまれているのです。この恵みに導かれて、お互いに、共に祈り、共に支え合う者として、「平和を実現する者」とされていきたいと思います。(笠井元)