1. 災いの意味
第七の災いとして、「雹の災い」が行われます。この箇所は災いの対象をファラオ自身と、その家臣と民とするのです。神様はファラオにその「対象はあなたである」と語るのです。それは、イスラエルの神が、全地の主であることを分からせるためであると教えるのです。
この世には自然災害など突然の不幸な出来事が起こります。同時に、多くの人災が起こされてもいるのです。出エジプト記でいえば、エジプトによるイスラエルに対する奴隷という扱いもそのように言うことができるでしょう。神様「なぜですか」と問いたくもなります。
2. 神を知るために
神様からすれば、罪ある人間を地上から絶やすことなどいつでもできることです。しかし、神様は人間が神様に立ち返ることを願い続けておられるのです。そのために、ここでは「19 それゆえ、今、人を遣わして、あなたの家畜で野にいるものは皆、避難させるがよい。」と言われます。
神様は、災いから逃れる道を示されたのです。それはイスラエルの民のみではなく、ファラオの家臣にまでにもでした。そして「主を畏れた者」(20)は、神様の災いから逃れることができたのです。神様は人間を愛しておられるのです。
3. 神の言葉を畏れる者
エジプトのファラオの家臣でありながらも、主の言葉を畏れた者がいたのです。主の言葉を畏れた者は、その僕も、家畜も避難させました。ファラオの圧力のなかでも神様に耳を傾けたのです。
人間の倫理観は、集団が集団として共に生きるための暗黙の常識とでもいうことができます。エジプトでは絶対権力者ファラオがイスラエル人を傷つけることを認めていたのです。そのような中で、ファラオの言葉ではなく、自分自身の心の中にある単なる倫理観でもなく、神様の言葉を聞く者が現れたのです。神を畏れ、その言葉を聞くことによって本当の生きる道が示されるのです。
4. 畏れていない者への執り成し
モーセは「あなたもあなたの家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていない」(30)と言うのです。しかし、モーセはそのような者たちのために執り成しの祈りを行うのです。まだ神様を畏れるに至っていない者のために祈ることは、執り成しの祈りの本質かもしれません。
モーセは執りなしの祈りをささげたのです。私たちのためにはイエス・キリストが執り成してくださっているのです。私たちは、イエス・キリストの執り成しのゆえに生かされていることを覚えましょう。そして心から神様を畏れる者とされていきたいと思います。(笠井元)