1: 義のために生きる
マタイによる福音書が記された時はまさにキリスト者が、多くの迫害を受けていた時でした。キリスト教徒はイエスを自らの主とし、皇帝を拝むことを拒んだのです。そのような存在は、ローマ帝国からすれば危険的存在だったのです。
現在のキリスト者は、社会においてどのような存在でしょうか。イエス様に従う時はこの世と区別されるのです。キリスト者がこの世において称賛される時は危険な時です。イエス・キリストの道を歩いているか、確認しなければならないでしょう。
2: 御言葉を聞く者
10節では、「義のために迫害される人々」と言っていたのですが、11節では「あなたがた」と言うのです。聞く者にその言葉を向けるのです。
それは、今、この御言葉を聞いている皆さんに向けられた言葉であると聞くことができるでしょう。私たちは、どれほど真剣に神様の御言葉を聞こうとしているでしょうか。わたしたちは、神様の御言葉、そこから教えられる神様の御心に耳を傾けているでしょうか。神様を必要として、祈り続けるとき、神様の御言葉を聞く準備ができていくのだと思うのです。
3: キリストによって義とされる
最後まで、神様の御言葉を聞き続けた人間は、義のために迫害され、ののしられ、身に覚えのないことで悪口を浴びた方、イエス・キリストです。わたしたちが「義」とされるのは、私たちの何かによるのではなく、イエス・キリストのこの十字架の出来事によるのです。
神様は、私たちを無条件に愛してくださっているのです。イエス・キリストの十字架によって、その愛は無条件に与えられるものとなったのです。
4: 愛されている喜び
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(12)
わたしたちは神様の愛を信じる信仰によって義とされるのです。喜びましょう。喜びは、私たちの心に何を起こすでしょうか、何をいただくのでしょうか、どのような者とされていくのでしょうか。それは、私たちが正しく、義とされ、人を裁くことができるようになるのではなく、他者を愛する者と変えられていくためなのです。
今、自分がどのように生きるか問いなおしてみましょう。何のために生きるのか、自分が目指す道はどこにあるのか、その目的、着地点が何なのか、考えてみたいと思います。(笠井元)