1: 義のために生きる
聖書は「義のために迫害される人々は、幸いである。」と言います。ここでは、迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられ、それでも、それが義のためであれば幸いであると言うのです。このマタイによる福音書が記された時、それはまさにキリスト者が、多くの迫害を受けていた時でした。当時イスラエルは、ローマ帝国の支配下にありました。そこにはローマによる平和があったのです。しかしそれは皇帝に従う平和であり、皇帝を拝み、皇帝に従うことによって与えられる平和です。その平和とは、従わせる者と従う者がいるなかで、従わせる者にとっての平和であり、権力ある者と権力によって支配される者がいて、権力ある者にとっての平和であり、日々満たされている者、また日々人間としても扱われない人々がいるなかで、満たされている人にとっての平和であったのです。ただ、そこに争いがない平和。それは、争いがないのではなく、権力によって「間違っている」と声をあげることさえもできなくなっている状態を、ローマ帝国が作りだしていたのです。
そのような時に、キリスト教徒は、イエスを自らの主と告白し、皇帝を拝むことを拒んだのです。皇帝こそがすべてを治める者であり、それが自分たちの主であるとはしなかったのです。そのような存在は、支配する者、ローマ帝国からすれば、危険的存在だったのです。自分たちの権力を無視する存在なのです。だからこそローマ帝国はキリスト教者を迫害したのです。帝国の平和を守るため、皇帝による自分たちの権力による平和を保つために、キリスト者は危険な存在として迫害したのでした。
現在のキリスト者は、社会においてどのような存在とされているでしょうか。今、キリスト者は、この社会において、迫害されているでしょうか。迫害されなさいとは言いませんが、迫害されない、ののしられない、それは、この社会においてまったく邪魔になっていないということ、この社会に溶け込んでいるということなのでしょう。この社会において危険性もなければ、迫害する必要もない者となっている。現在の社会において、キリスト者の存在はまったくインパクトのない存在であるということです。
これは、私たちが生きる社会が変えられたのでしょうか。それとも、キリスト者が変えられたのでしょうか。社会が神を認め、神のために生きて、神様の御心を喜んで受け入れた。そして権力を持つ者が、弱い立場の者を守り、富む者が貧しい者のために、財産を共有するようになったのでしょうか。それともキリスト者が、社会で生きるために、自分たちが「イエスを主」と言うのではなく、むしろ皇帝のような権力と富に従う者となったのでしょうか。 わたしは、現在、キリスト者が迫害されない理由は、後者にあると思うのです。私たちキリスト者が「イエスを主」とすることを一番にしていないと感じるのです。
ドイツがナチスに支配されていた時に、ヒットラーを暗殺しようとして、捕えられ、処刑された、神学者のボンヘッファーはこのように言いました。「イエスに従う者は、判断と行為において、自分をこの世と区別する。彼らはこの世に不快な感情を起こさせるであろう。それゆえに、弟子たちは義のために迫害されるであろう。」(ボンヘッファー『キリストに従う』p.109)イエス様に従う時、それはこの世と区別されていくのです。この世に不快な感情を起こさせ、邪魔者と感じるようになるのです。その存在は否定され、迫害されると言うのです。キリスト者がこの世において、迫害されないで、称賛される時、それは、本当にキリストを中心に生きているのか、問いただし、気を付けなければならない時でしょう。本当に自分たちは「イエス・キリストの道」を歩いているだろうか、確認しなければならないのでしょう。
ここには、私たちの生きる生き方を聞くことができると思います。わたしたちは、何のために生きるのか、将来の夢は何なのか、そのために今、何をするべきなのかと考えさせられるのです。私たちは今、何のため、何を求めて生きているでしょうか。聖書は私たちに、「義のため」(10)そしてそれは、11節では「わたしのため」つまり「イエス・キリストのため」に生きる道を示しています、そしてそれは幸いであると教えているのです。
2: 御言葉を聞く者
今日の箇所11節では、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。」と語ります。10節では、「義のために迫害される人々」(10)と言っていたのですが、ここでは「あなたがた」と、つまり「聞く者」「あなたがた」にその言葉を向けるのです。それは、この聖書の御言葉が、今、この御言葉を聞いている皆さんに向けられた言葉であると聞くことができるでしょう。
今、私たちは、この聖書の御言葉を真剣に自分自身に語られた言葉として聞くべきなのです。神様はみなさんに語りかけているのです。わたしたちはこの聖書の言葉を、神様が私自身に語られている言葉として聞く必要があるのです。私たちは、どれほど真剣に神様の御言葉を聞こうとしているでしょうか。神様はまず聖書から、その御言葉を語りかけています。ただ、神様のわたしたちに対する語りかけは、聖書からだけではないでしょう。神様は、時には、私たちの隣人の言葉から、その行為からも語りかけてくださいます。そしてまた、時には、この世界に起こされるさまざまな現象から、時には動物や、植物から、そしてその他多くの自然という神様の被造物から、神様は様々な事柄を通して、私たちに語りかけてくださっているのです。わたしたちは、神様の御言葉、そこから教えられる神様の御心に耳を傾けているでしょうか。この神様の御言葉を聞く姿勢は、神様を必要とする姿勢です。神様を求めて、必要として、祈り続けるとき、神様の御言葉を聞く準備ができていくのだと思うのです。
聖書は「義のため、イエス・キリストのために生きるように」と教えています。そして、そのために神様の御言葉に耳を傾け、聞き、求め、準備をするようにと勧めているのです。
3: キリストによって義とされる
神様の御言葉を聞く準備ができている人。準備し、完全に神様の御言葉を聞き続けた人間。それは人生の最後まで「義」のために生き続けられた方、イエス・キリストだけなのではないでしょうか。義のために迫害された方、そして、ののしられ、身に覚えのないことで悪口を浴びた方、それはイエス・キリストなのです。イエス・キリストは神様の御言葉を聞き続け、そして神様のために生き続けられました。そしてそのうえで、最後は十字架という惨めな姿で死なれていったのでした。これが、神様に従い続けた方の姿、神様の御言葉に耳を傾け続けられた方の姿なのです。このような姿に生きることが私たちにできるのでしょうか。この世と自分を区別し、ただ神様だけのために生きる、その命をかけてまで、キリストに従い、そのためだけに生きることが、私たちにできるのでしょうか。
わたしたちが「義」とされるのは、私たちの何かによるのではなく、イエス・キリストのこの十字架の出来事によるのです。「義」とされること。それは、私たちが、自分の命をかけてまで神様に従わなければ、あなたは義と、正しい者とされない、そして救われないということではないのです。むしろ、イエス・キリストの十字架は、そのような考え、人間が自分の行為によって救われるという考えから救い出してくださった出来事なのです。「あなたは命をかけて神様に従わなければ、信仰のない者だ」とか「祈り、礼拝し、伝道しなければ救われない」など。また「あなたは迫害されるまで、なにかをしなければならない」「あなたはこの世の権力に対抗する者でなければならない」と・・・私たちは、「これができなければ」「あれもできなければ」と考えてしまうかもしれません。そして、そのような思いが、なにもできない自分を認められない自己否定という思いを生み出すのでもあります。ある意味、迫害、ののしり、あざ笑う思いとは、そのように「何もできない自分」を認めない自分自身にもあるのかもしれません。
しかし、神様の愛は、そのように「何かをしなければ」ということではないのです。神様は、私たちを無条件に愛してくださっているのです。この愛は、ただ神様が私たちのために命をかけて、私たちを受け入れてくださったという愛の出来事なのです。イエス・キリストの十字架によって、その愛は無条件に与えられるものとなったのです。 私たちはこの神様の愛を、ただ受け入れ、信じるとき、本当に喜ぶことができるのです。愛されている喜びを受けるのでしょう。
4: 愛されている喜び
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(12)
イエス・キリストの十字架によって、神様の愛が示されたのです。わたしたちはその神様の愛を信じる信仰によって義とされるのです。私たちはこの神様の愛を喜びましょう。喜びは、私たちの心に何を起こすでしょうか。私たちは、このイエス・キリストの愛を知った者として、心に何をいただくのでしょうか。どのような者とされていくのでしょうか。
先日の祈祷会では、マタイの18章から「赦しあうために」ということを学びました。イエス様の弟子であるペトロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」と尋ねたのです。私たちは他者の罪を何回赦すべきでしょうか。イエス様は「7の70倍」と言われました。回数で言えば490回となりますが、それは「何回赦せばよいかという問題ではないということを教えられたのです。イエス様はこのペトロの問いに、たとえを用いて、まず「あなた自身がどれだけ赦されているのか、愛されているのか」を思い出すように、そして神様の愛は無条件であり、その赦しは無制限であることを教えられたのです。祈祷会では、私たちは自分の正しさを主張することによって、人を赦さないことがあるのではないか。特に、自分が正しいと思っているときにこそ、私たちは他者を裁いてしまっているのではないか。神様の前に「正しい者」がいるのだろうか。私たちは、神様の前にあって、正しいと言うことはできないだろう。しかし神様はそのような私たちを赦し、愛してくださっていることを、きちんと覚えたいと話し合いました。
神様に「愛されていること」「赦されている」ということを忘れてしまうとき、私たちは自分の正しさを主張し、裁きあう者となってしまう。「赦しあう」ことができなくなるのです。
私たちは神様に愛されているのです。それは、私たちが正しく、義とされ、そして人を裁くことができるようになるのではなく、他者を愛する者と変えられていくための愛なのです。私たちは、どのような時にあっても神様に愛されている。だからこそ、私たちはイエス・キリストのために生きるのです。それはお互いに愛し合う者として、喜んで生きる道を歩き出すことです。
2000年以上も宣べ伝えられてきた、キリストの福音は、神様の愛を土台とした熱い信仰による、愛と赦しあいという関係を作ってきた福音なのです。歴代の預言者、伝道者が、どのような時にあっても変えることがなかったのは、神様から愛されているという事実であり、だからこそ、悔い改め、立ち返ること、そして何度でも、お互いを赦し愛おうという道を生きたということでしょう。
神様はわたしたちを愛されています。今、私たちは、自分がどのように生きるか、もう一度、問いなおしてみましょう。何のために生きるのか、何をするのか。自分が目指す道はどこにあるのか、その目的、着地点が何なのか。考えていきたいと思います。 (笠井元)