1: 地の塩としての働き
イエス様は「あなたがたは地の塩である。」(13)「あなたがたは世の光である。」(14)と言われました。今日は、この地の塩、世の光という意味を共に考えていきたいと思います。
まず、「地の塩」としての意味ですが・・・一つに、塩とは小さいものであるという意味があります。塩の物理的な存在の大きさは小さなものであり、一粒であればほとんど、あるかないかわからない大きさです。しかしまた、それでもその一粒、一握りの塩によって、食べ物の味は大きく変化します。そのような意味で、その存在は小さなものでありながらも、味付けとなれば大きな意味を持つ、それが塩というものなのです。
当時、キリスト者は、ローマ帝国による迫害を受けていました。今日の箇所の前に、「幸いの言葉」として記されている中でも「貧しい者」「悲しむ者」「飢え渇く者」「義のために迫害される者」と記されており、当時のキリスト者の立場の厳しさを見ることができるのです。
そのような中にあって、主は「あなたがたは地の塩である」と言われたのです。それは、小さくてもその存在の意味の大きさを示し、苦しむキリスト者を励ます言葉であったのです。
そして、この小さな塩の、一番の意味は、「味付け」としての意味があるでしょう。塩は塩だけで食べるのではなく、何かの味付けをするものでしょう。塩は、そのものだけで使うものではなく、他のものの味を引き出すものなのです。しかも、その味付けはなかなか難しいものなのです。現在は減塩、薄味が、健康に大切だとされ、塩による味付けは薄味にしようという風潮となっています。このことは、別の見方をすれば、わざわざ減塩、塩を減らしましょうというほどに、塩を使ってしまうということなのです。塩をつけることは、確かに、料理のおいしさを引き出しているのでしょう。しかしまた、塩を入れすぎれば、確かに健康にもあまりよくないとされますし、あまりにも多く入れますと、からくて食べられなくなります。塩味が強すぎても、食べることができなくなるのです。
塩の味付けとしての存在。それは量を間違えず、きちんと使えば、小さなものでありながらも、おいしさを引き出すものとなるのです。スイカを食べる時には、スイカを辛くするためではなく、むしろその甘さを日だすためとなるのです。そのような意味で、とても小さく、隠れた存在でありながら、おいしさを引き出し、人々に喜びと幸せを与える、とても大きな働きをする、それが塩なのです。
「あなたがたは地の塩である」と言われる私たちにしてみれば、私たち自身が大きな働きをするのではなく、その存在は小さいながらも、この世の良さ、そして隣人の良さを引き出す者としての存在の意味を教えられるのです。しかもそれは他者の良さを引き出し、この世に大きな喜びと幸せを与える存在としてなのです。
また、塩には、別の意味として、防腐と清めとしての意味を持ちます。塩をかけることによって、食べ物を腐りにくくし、また、塩をかけることで清める意味も持つのです。傷つき、腐っていくものを、小さな存在である塩をかけることによって、清め、腐りにくくすることができるのです。この小さな塩という存在は、傷つき、腐ったようなこの世において、この世が腐りきらず、この世界が汚れきることに抵抗する存在となるという意味があるのです。「世の塩」。この世に塩として存在があり、その働きがある時、この世界は、腐りきらずに、また、汚れきらないのです。私たちは「地の塩」と言われているのです。つまり、キリストという存在を受け取る者として、神の恵みを忘れていくこの世に抵抗するように、腐りきることがないように、働くように命じられているのです。
私たちは自分たちの働きが、小さく、無力にも感じる時もあるかもしれません。しかしそれでも、絶望することなく、希望をもち、キリストの愛を叫ぶとき、そこには必ず大きな意味を持つのです。これらが「地の塩」として私たちが教えられている意味なのです。
2: 世の光としての働き
「世の光」としての存在は、今まで話しました「地の塩」の存在とは、まったく違うものとなるのです。そしてまた、そうでありながらも、その存在の意味は共通するものとなるのです。
14節からこのように教えられています。「14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」
まず、光というものは、塩のように隠れたところで働く存在ではないのです。光は、隠れることはできず、また隠すことのない、わざわざみんなの見えるところに置き、すべてを照らすのです。当時は、家は、ほとんど一つの部屋によってできていたので、燭台の上に置かれた光は、確かに家の中のすべてを照らしたのです。光はすべてを照らし出します。そして、この光とは、聖書において、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言われているように、私たち自身ではなくイエス・キリストのことを意味するのです。イエス・キリストという光の存在がすべてを照らし出すのです。
ただ、「14 あなたがたは世の光である。」と言われ、また16節では「16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(16)と言われているのです。このように読みますと、「光」とは、まさに私たち自身のようにも読み取ることができるのかもしれません。「私たちの光」「私たちの立派な行い」とは、その光の行いを見て、人々が「天の父をあがめるようになるため。」のものなのです。私たちの行う立派な行いとは、この世的な良い行いを意味しているのではないのです。
この箇所は、イエス様の山上の説教のうちに一部となります。山上の説教でイエス様は、これまでの律法主義を批判し、律法を行うことだけに囚われている者に、新しい律法、神様との関係による、神様の愛を土台として生きることが教えられているのです。そのような意味で、ここでも「立派な行い」とは、私たちが行う、律法的な行いを意味しているのではなく、神様の愛を表す行いを意味しているのです。自分を目立たせることではなく、その背後におられる神様の恵みを表す行為なのです。
私たちは、神の光を受けて、光とされるのです。神様の光を受けたものとして、この世を照らし出しなさいと教えられているのです。
3: 地の塩、世の光としてのあなたがた
ここまで見てきましたように、塩には塩の役割があり、光には光の意味があります。そのうえで、ここではもう一つ、ここで、「あなたがたは地の塩である」(13)「あなたがたは世の光である。」(14)というところから、「あなたがた」と言われていることの意味を見たいと思うのです。イエス様は「あなた」とは言わずに、「あなたがた」と言われました。「地の塩」「世の光」として働くのは一人ではなく、「わたしたち」、つまり信仰共同体としての教会の働きを意味しているのです。
教会は、この世全体においては小さな存在かもしれません。しかし、その存在の意味は大きいものなのです。教会がなすべき働きは、イエス・キリストという光を告白し続けることです。その光を消すことなく、どのような時にあっても、キリストこそが救い主であると告白するのです。
そして、その働きはこの世におけるものなのです。教会が、この世から全く離れてしまったところで存在しても、それは意味をなさないのです。塩が何かに溶け込んで意味をなすように、教会も、この世に存在するからこそ、意味をもつのです。
教会はこの世においてキリストを主と告白します。私たちが生きるこの世界が腐りきらないように、汚れきってしまうことのないように、主を告白するのです。その時、教会は大きな働きを行うことになるのです。それはまさに光として、闇に光る「ともしび」としての働きなのです。
しかしまた、確かに、教会もまた、この世にある人間の集まりとしての存在なのです。そのため、教会自体もまた、その道を踏み外す危険性を持っているのです。それは、塩が塩気をなくすことです。この世の価値観に埋没してしまうこと、飲み込まれてしまうことなのです。同時に、その働きの栄光を、自分のものとしてしまうという危険性です。光を、キリストではなく、自分自身のものとしようとする、そのような誘惑が、この世にはあるのです。
そのような意味で、イエス様が「あなたがた」として、教会にその働きを命じられたことが大きな意味をもっているのです。
私たちは、この世において、一人で働くのではないのです。教会という信仰共同体として働くのです。わたしたちは、お互いが、間違った道を進むことのないように、お互いに信仰を確かめ合い、祈りあうことできるのです。それは教会という共同体だけではなく、バプテストでは、連盟、連合という共同体があることも、大きな意味をなしていると言うことができるでしょう。お互いの信仰を点検しあうこと、そして、お互いが道を踏み外すことのないようにする、そして祈りあうことができるのです。社会に埋没してしまわないように、そして、自己栄光化、自分に栄光を帰すものとならないように、私たちは、教会として、お互いにその信仰を点検し、分かち合いながら、キリストを告白するのです。私たちは社会の中にあって、教会として、キリストに結ばれた信仰共同体として、イエスこそが主であることを告白し続けるのです。
4: 信仰による働き
最後に、このキリストの言葉が、私たちに期待と希望を持って語られているということを見ていきたいと思います。ここでイエス様は、「地の塩となりなさい」「世の光となりなさい」ではなく、「地の塩」「世の光」であると言われたのです。わたしたちは、これから自分の行いを改め「地の塩」「世の光」にならなければならないのではないのです。イエスを主と告白するとき、私たちはすでに「地の塩」であり「世の光」とされているのです。
神様は、教会に、「地の塩」「世の光」としての働きを任せてくださったのです。神様はわたしたち、このキリストに結ばれている信仰共同体である教会、この教会を「地の塩」「世の光」であると宣言してくださったのです。それは、なにかができるから、このようにしなさいということではない、ということです。わたしたちはただキリストを信じる信仰によって、すでに「地の塩」「世の光」とされているのです。神様は、ただ信仰を持って生きる者に、期待し希望をもってその働きをお任せしてくださっているのです。
ただ信じる者。神様を信じなくては生きていけない者。この世的には弱く、小さい者。それでもただ神様を信じることだけは忘れていない者。そのような者を神様は輝かして、光として生かしてくださるのです。
「あなたがたは地の塩、世の光である」。主は私たちを愛して、信じておられるのです。私たちは、この神様を信じて、その期待に応えていきたいと思います。(笠井元)