1: 地の塩としての働き
「地の塩」としての意味には、一つに、塩とは小さいものであるという意味があります。塩は一粒、一握りで食べ物の味を大きく変化させるのです。その存在は小さなものでありながらも、味付けとなれば大きな意味を持つのです。また、塩は、そのものだけで使うものではなく他のものの味を引き出すのです。「あなたがたは地の塩である」。その存在は小さいながらも、それは他者の良さを引き出し、この世に大きな喜びと幸せを与える存在としてなのです。また、塩には、別の意味として、防腐と清めとしての意味を持ちます。この世に塩としての存在がある時、この世界は腐りきらず、汚れきらないのです。
私たちは自分たちの働きが、小さく、無力にも感じる時もあるかもしれません。それでも、絶望することなく、希望をもちキリストの愛を叫ぶとき、そこには必ず大きな意味を持つのです。
2: 世の光としての働き
「世の光」としての存在は「地の塩」の存在とはまったく違うものです。またそうでありながらも存在の意味は共通するものとなるのです。
光というものは、塩のように隠れたところで働く存在ではないのです。光はすべてを照らし出します。この光とは私たち自身ではなくイエス・キリストのことを意味するのです。イエス・キリストという光の存在がすべてを照らし出すのです。私たちは、神の光を受けて光とされるのです。神様の光を受けたものとして、この世を照らし出しなさいと教えられているのです。
3: あなたがた
イエス様は「あなた」とは言わずに、「あなたがた」と言われました。「地の塩」「世の光」として働くのは一人ではなく信仰共同体としての教会の働きを意味しているのです。
教会は、この世全体においては小さな存在かもしれません。しかし、その存在の意味は大きいものなのです。教会がなすべき働きは、イエス・キリストという光を告白し続けることです。その光を消すことなく、どのような時にあっても、キリストこそが救い主であると告白するのです。
4: 信仰による働き
「地の塩となりなさい」「世の光となりなさい」ではなく、「地の塩、世の光である」と言われたのです。「地の塩」「世の光」にならなければならないのではないのです。すでに「地の塩」であり「世の光」とされているのです。神様は、ただ信じる者、神様を信じなくては生きていけない者を光として生かしてくださるのです。私たちは、神様を信じて期待に応えていきたいと思います。(笠井元)