1. 主の言葉
ここでの対象はイスラエルの民、その子孫となっているのです。神様はこれまではエジプト人に向けて主なる方がおられることを示してきました。エジプト人の心が変えられ、イスラエルの民が奴隷という立場から解放するために「しるし」が起こされてきたのです。それに対し、ここでは、出エジプトの出来事が起こされ、そのしるしがイスラエルの民に語り伝えられるためだと言うのです。
つまり「信仰を得るため」の「伝道の業」から、「信仰が守られ、継承されていくため」にと「教育の業」と見ることができます。信仰の継承の大切さをもう一度確認しましょう。
2. ファラオと家臣の態度
ファラオの家臣は「イスラエルの民を主に仕えさせるように」と神を畏れたのです。しかし、それに対して、ファラオは主の力、災いを畏れなかったのです。ファラオはモーセとアロンを呼び戻します。(8-11)
ファラオは行くならば「男たちだけで」と言うのです。ファラオは、「女性や子どもはこちらにいるのだから、行って主に礼拝しても、帰ってきなさい」と言いたかったのでしょう。ファラオは、主の力、その災いを起こしている者を畏れたのではないのです。
ファラオの家臣は主の言葉を畏れ、ファラオは主を畏れなかったのです。
3. いなごの災い
12節からいなごの災いが起こされていくのです。いなごの災いは、旧約聖書の中で、神様の裁きとして恐ろしいものとされているのです。また、ここでは自然現象、東風を起こしてこの災いが起こされたのです。この現象は、今後来るべき出来事としてある、葦の海での主の御業を表していると見ることができるのです。神様は14章において東風をもって葦の海を押し返されたのです。(14:21)いなごの災いは、まさに主の裁きを表している。そしてその主の裁きこそがイスラエルにとっては救いと解放であり、エジプトにとっては滅びの出来事なのです。
4. 赦しを求めるファラオ
16節からファラオは赦しを願うのです。ここでファラオは「こんな死に方だけはしないで済むように。」(17)と言います。ファラオはかたくななままで歩む自分の姿を少し理解したのでしょうか。この言葉は、わたしたちに生きる生き方の大切さを教えています。死をどのように迎えるか、そして、今、どのように生きていくべきかということが問われているのです。どのように生きて最後の時を迎えたいのか。満足した人生とは何なのか。考えさせられます。私たちは、今、どのように生きるのか考えたいと思います。
(笠井元)