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2017.8.6 「平和を求めて歩き出そう」 (全文) ヨハネによる福音書14:26~31

1:  傍らに立つ方 聖霊

 今日は、72年前に、広島に原爆が投下された日です。8月6日には、広島に、そして8月9日には長崎へと原爆が投下されました。広島では14万人、長崎では7万人ほどの人たちが命を落とされたのです。私たちはこの悲劇が二度と起こらないために祈り、また声をあげ続けていきたいと思います。現在の日本は、いつでも戦争ができる体制となり、世界はテロの事件が続いています。私たちが少し広く社会を見れば、至るところで戦争が起きているのです。

 今日は、ヨハネによる福音書から、平和について、それはこの世界を造り、今も命を造り、守り、養い続けてくださっている神様が、平和を求めていることを、そして神様が求める命の大切さを、共に学んでいきたいと思います。

 

 今日の箇所では、イエス様は、平和と同時に、弁護者としての「聖霊」を送ってくださると語っています。今日の箇所で、聖霊は「弁護者」と言われています。この聖霊は、別の箇所では「助け主」「慰め主」とも記されています。「聖霊」、弁護者はもともとの言葉では「パラクレートス」という言葉であり、その意味は、「傍らに呼び出された者」という意味を持ちます。私たちの「助け主」「慰め主」、そして「弁護者」は、私たちの傍らに立っており、私たちを助け、慰めてくださっているのです。神様は、イエス・キリストの名によって、私たちに聖霊を送ってくださいました。

 私たちの傍らには、いつも弁護者である聖霊がともにいてくださるのです。そして、この聖霊が、この世に、平和を造りだし、私たちを平和へと導く、導き主なる神様なのです。

 

2:  世の平和と神様の与える平和

 イエス様はこのように語ります。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)イエス様は、平和を残し、平和を与えると教えてくださっているのです。わたしたちはこの主イエスの残された平和を受け取っているでしょうか。イエス様の与える平和とは、この世が与える平和、ある意味、私たちが単純に求めている「平穏無事である日々」「何も問題のない社会」という平和とは少し違うものなのです。私たちの生きる世の中には、「これが平和だ」といいながらも、それは見せかけであったり、ごまかしである時があるのです。

 見せかけの平和の一つに、力による平和があります。それは「平穏な日々」に見える社会でありながらも、実のところは、無理矢理、人々を力で抑え込む、力と圧力による平和なのです。強い軍事力や経済力、そのような力によって弱い立場の人々を押さえつけることによって、強者だけに居心地のいい状況を作りだす社会です。そこでは弱い人の人権は無視され、自由は与えられない。これが平和と言えるでしょうか。今の日本の社会、そして世全体の考えは、まさにこのような強い者が、弱い者を無理矢理我慢させ、押さえつける中で成り立っているのではないでしょうか。

 そして「勝ち組」と言われる者となるために、「負け組」と言われる者とならないように、なんとか必死に勉強をし、仕事をしている。そこではただ、この世における力を得ようとして生きているだけなのではないでしょうか。 このような誰かの自由を奪い取るなかで保たれている平和は、見せかけの平和、ごまかしの平和なのではないでしょうか。

 また、見せかけの平和には、もう一つの形があります。こちらのほうがやっかいなものですが、一見平和に見えて、何も問題のないように見える。しかしそれは、誰もその問題を問題視していない、いわゆる無関心が作りだしている平和です。私たちは、苦しむ人々、悲しむ人々がいても、自分の事ではないからと、目を向けようとしないでいないでしょうか。そのような無関心による平和というものがこの世にはあるのです。

 日本人は北朝鮮からのミサイルには、敏感に反応しますが、別の場所でテロが起きていても、何人もの人が亡くなられていても、一時的には悲しみを同感することはあっても、少し経てば、忘れてしまっている。他人事は他人事として思ってしまうのではないでしょうか。どこかで「自分の事ではない」と思ってしまっているのではないでしょうか。隣にどれほど困っていている人がいても、その問題や痛みを見ようともしない。それが無関心の平和、見せかけの平和なのです。

 

 このような見せかけの平和に生きる私たちに、イエス様は「わたしの平和を残し、与える」と言われました。神様の平和は、自分自身が痛みを伴われる形で与えられる平和です。遠くから眺めていて、なんとなく困っている人がいたら、同情はするけれど、自分自身の痛みとしてまで受け取ろうとはしていない、そのようなものが作りだす平和ではないのです。神様の平和、それはまさに神様の子イエス・キリストが十字架の上で苦しみ、死なれたことを基として、私たちに与えられているのです。

 聖書はこのように語ります。

 エフェソ2:14-17

 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」

 

 神様が与えてくださる平和は、イエス・キリストの十字架、その苦しみを通して与えられたものです。イエス・キリストは二つのものを一つにするために、そして、敵意という壁を取り壊すために、この世に来られました。神様が与えてくださる平和は、神様ご自身が痛みを伴われ、そのうえで、私たちに与えられているのです。

 私たちは、平和というものを自分の力で、勝ち取ろう、作りだそうとしていないでしょうか。自分で考え、自分が強くなり、自分が力を得る。その中で、平和を造りだすことができると思ってはいないでしょうか。私たちが自分の力で作りだし、得ることができるのは、先ほど言いました、「力による平和」か「無関心の平和」という見せかけの平和でしかないと思うのです。

 平和は神様が命をかけて、私たちに残し、与えてくださるものなのです。それ以外の方法によって、平和を作りだすことはできないのです。私たちはただ素直に、この主の愛を、心から求め、受け取るときに、本当の平和の道を歩き出すことができるのです。

 

3:  苦しみの中にある希望への一歩

 イエス様は語ります。

 「心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」(ヨハネ14:27-31)

 イエス様は、「ことが起こったときに」そして「世の支配者が来る」と語ります。この言葉は、まさに、イエス様が、これから捕らえられ、十字架につけられ、死へと向かうということを意味しているでしょう。そしてイエス様は、それが、神様の計画のうちにあるのだと語るのです。

 神様の計画。イエス様は、自分自身が、これから苦しみに出会い、痛みの中に生きなければならないということ、試練の時を予告し、それがまた、恵みが与えられるための第一歩としての計画であると教えているのです。この時のイエス様の気持ち、死に向かう時の思いを考えますと、わたしたちには想像できないほどの、苦しみ、恐れがあったのではないでしょうか。ただの痛みや試練ではないのです。そこにあるのは死であり、この世に生きる者としての絶望です。イエス様は、この道を歩いていたのです。

 しかしまた、イエス様は、この出来事が希望への第一歩であると教えているのです。つまり、イエス様のこの十字架への道は、悲しみのときであり、喜びの始まりだと教えてくださっているのです。この十字架を通して、主イエスは、私たちが苦しみの中にいる時、傍らにきてくださることを示されたのです。主イエスは、私たちと共に痛みを受け、そのうえで「心を騒がせるな。おびえるな。」と励ましてくださっているのです。この世における苦しみ、死、絶望は、主イエス・キリストの十字架によって、希望の道へと変えられたのです。

 

4:  立て、出かけよう

 そして、イエス様は、最後にこのように語られます。「さあ、立て。ここから出かけよう。」(ヨハネ14:31)私たちは、ここから、立ち上がり、出かけましょう。これから新しい一週間が始まるのです。私たちはこの主の御言葉を受けて、新たな力を得て歩き出したいと思うのです。それは、主イエス・キリストが残され、与えられた平和を受け取り、希望をもって出かけるのです。この世には大きな不安があり、恐れがあります。しかし、イエス様は私たちが希望を持って生きるようにと、励ましてくださっているのです。それは、むやみに行き先も分からずに出かけることではなく、また、根拠のない希望でもないのです。私たちは主が傍らに立ってくださるという希望と慰めをいただいているのです。

 主は言うのです、「さあ、立て。ここから出かけよう。」と。私たちが歩くべき道は、それぞれ様々な道かもしれません。「傍らに立つ平和」といっても、現実には、ただ、みんながみんな一緒に暮らすこと、一緒にいることを言われているのではないのです。私たちは、他者を愛するといって何をすればよいのでしょうか。「わたしは何をすればよいのだろうか、私は、他者を愛するために、どうしたらよいのか。そして神様に与えられた平和を生きるためには、何ができるのだろうか。」

 わたしたちは、この思い、「どうしたら神様に従い生きることができるだろうか」という問いをもって歩き出す時に、すでにその神様の示された道を歩き始めている、「ここから出かけよう」という言葉に応答し始めて、立ち上がっているのです。そしてその答え、応答の姿はさまざまな姿となるのでしょう。みんながみんな何か同じことをすればよいということではないのです。主の平和を生きるということは、何か決まったことをすればよいというものではないのです。

 イエス・キリストは、私たちが、お互いに愛し合う者となるように、私たちを愛して、私たちを造り変えてくださいます。そして、私たちの傍らには、いつも聖霊が共にいてくださるのです。この聖霊の導きを信じて、そしてその中で、主による平和の実現と、神の国の到来を待ち望んで歩き出していきましょう。(笠井元)