1: 律法を守ること軽視すること
イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)と言われました。今日の箇所で、イエス様は律法について話しはじめられます。今日の箇所の意味は、イエス様がこれから語られていく言葉を見ると、その意味がよくわかってくるのです。
イエス様は、今日の箇所以降、続けてこのように言われていくのです。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「・・・してはならない」と命じられている」「しかし、わたしは言っておく。・・・このようにしなさい」と教えていきます。少し見てみますと、21節からは21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
これからこのような教えが続くのですが、このようにイエス様は、これまでの教えに対して「あまたがたはこのように教えられているが、しかしこのようにしなさい」と教えられていくのです。イエス様はこれまでの律法を否定し、新しい教えを教えられたのではないのです。イエス様はこれまでの律法を完成するために語られました。そのことをきちんと教えるために、今日の箇所において、まず・・・「わたしの教えることは「律法や預言者」を廃止するためではなく、完成するためである」と、間違えのないように教えられているのです。
イエス様は、先ほど読みましたように「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は「・・・してはならない」と命じられている」「しかし、わたしは言っておく。・・・このようにしなさい」と言われました。イエス様は律法の完成に来られました。そのためにまず、当時の律法主義を批判されたのです。それは律法を否定したのではなく、律法主義に生きることが間違っていると教えられたのです。当時、ファリサイ派の人々は律法を守ることをとても大切にしていたのです。律法、つまり「神様との契約の教え」を守ることは大切なことです。しかし、ファリサイ派の人々は、いつの間にか、なぜ律法を守るのか、この律法を守ることで、どのような神様とのつながりが与えられるのかという、根本的なことを忘れてしまっていたのです。ただ律法は守るべきだから守る。この律法さえ守っていれば良い。同時に、他の人にも、「あなたはこの律法を守らなければいけない」「律法を守らない人は罪びとである」と考え、「なぜ守るべきか」・・・「神様の愛を知り、神様に生かされて、喜んで生きる」ということから離れていってしまっていたのでした。
イエス様と律法主義のファリサイ派の人々とは、マタイ福音書の様々な場面で、議論を繰り返していきます。断食の問題、安息日についての問題、また離婚についての問題などを議論していくのです。ファリサイ派の人々は律法を守ることを大切にしていました。このこと自体は私たちが学ぶべき姿勢でもあるのです。今の私たちは、どれほど神様からいただいている生き方を大切にしているでしょうか。生き方の中心に神様がいるでしょうか。ただ神様からの律法を守ることを大切にすることと、その律法に縛られることは違うことなのです。ファリサイ派の人々は、大切にしていたというよりは、むしろその律法に縛られてしまっていたと言うことができるのです。「あれをしなければ」「これをしなければ」と縛られてしまっていたのです。その一番の象徴的出来事として、イエス様を殺そうと殺意を抱いた問題として、「安息日」についての問題があったのです。イエス様は安息日に癒しを行われ、罪の赦しを告げたのです。しかし、ファリサイ派の人々にとっては、これが納得することができませんでした。このあとのマタイ12章で、この安息日の問題の後に、ファリサイ派の人々がイエス様を殺そうと相談を始めたと記されているのです。神様からいただいた律法をなぜ守るのか。それは神様の御心のうちに生きるため、神様の愛をきちんと覚えて生きるためです。ただ律法を守るために生きるのではないのです。
同時に、今日の言葉は、律法を守らなくても良いと誤解してしまうことに対する警告の言葉でもあるのです。イエス様は律法から自由に生きることができたのです。それはただ自由奔放に、自分勝手に生きたのではないのです。そうではなく、神様との関係のうちに、いつも正しく生きることができたのでした。それが時に、当時の律法からは自分勝手に見えていたとしても、イエス様は、目の前の困っている人を助け、罪びとと共に生きてくださったのです。
このイエス様の振る舞いを見て、律法の大切さを忘れ、守らなくても良いと勘違いした者もいたのでしょう。イエス様を信じていれば何をしてもいい、どんなことをしても赦されていると勘違いしないように、イエス様は「自分は律法を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われたのです。
2: あやふやな倫理観
イエス様は、神様との関係のうちに正しく生きられたのです。そして律法に囚われるのではなく、そのように生きることを望んでいました。これはある意味、当時の人々、ファリサイ派を中心としたユダヤの民が、律法を大切にしようとしていたという前提があるのです。ユダヤの民は、神様との約束である律法を、小さいときから、生きる指針、価値観、倫理観としてもっていたのです。イエス様はそのうえで、本当に神様と繋がることをもう一度考えるように教えられたのです。
そのように考えますと、現代を生きる私たちは、生きるためのルールや規範、生きる指針自体を持っていないのではないのかと考えさせられるのです。確かに私たちも大人になるにつれて、それぞれに倫理観を作って、どのように生きるべきかを考え、自分なりの生き方や倫理観を作りだしているのかもしれません。しかし、それぞれが、それぞれに作りだしている倫理観はとてもあやふやなものではないのかと考えさせられるのです。
旧約聖書の律法の中心には十戒があります。十個の約束です。そこではまず「神様を神様として生きなさい」とあります。ユダヤの民の心の中にはいつも神様がいたのです。では、私たちはどうでしょうか。まず神様を神様とするというところから、そのような考え方も、もっていないのではないかと思うのです。神様を神様とする。自分が神にならないために、つまり傲慢に、自分勝手に生きないために。またはほかの何かを神としないために、それはこの世にある様々なもの、となりにいるだれかから動物など、または人間の作りだした、生き方や考え方、それらの何にも依存することがないために。ただ世界を造られた方のみを神として生きるために教えられたのです。
現代はこのこと自体が抜け落ちてしまっている。そして、それぞれがそれぞれに生きたいように生きているのではないでしょうか。
わたしは、この教会に来まして、幼稚園の仕事もするようになりました。その中で、本当に人間は様々な考えを持つ者だと実感させられているのです。幼稚園では、横断歩道を渡る時は、右手を挙げて、右を見て、左を見て、もう一度右を見て、わたりましょうと教えます。子どもはその言葉を真剣に聞き、素直に信じて行います。しかしこの行為の本質は、「事故が起こらないため」です。そのことを理解した大人は、横断歩道を渡る時に、右手を挙げなくなっていくのです。それはそれで一つの知恵でしょう。ただ同じように言えば、信号があるのも「事故が起こらないため」です。ただ信号が赤で「事故にならない」と思えるような場合に皆さんはどうするでしょうか。青まで待つでしょうか、赤でもまあ大丈夫だと思ってわたるのでしょうか。「赤信号みんなでわたれば怖くない」とも言われます。このようになると、意見が分かれるかもしれません。最後は、人間のそれぞれの倫理観によるものとなっていくのです。
そのほかにも幼稚園では、人に悪口を言ったら謝るようにと教えます。ただ・・・知恵がつけば、子どもは、今度は、先生の見ていないところで、悪口を言うようになったり、うそをついたりすることを覚えるのです。「うそをつくことができるようになる」というのは、一つの成長過程であり、実はとても大切なことでもあるのです。最初はばればれの「うそ」しか言えなかった子どもが、だんだんと「ほんとうかどうかわかりにくい嘘」を言うことができるようになることは、人間としての知恵、想像力、相手の心を考える力であり、成長でもあります。また、この成長過程において、「うそ」の使い方も学ぶのです。ただそれが、人を傷つけ、自分を守るための嘘であるのか、それとも「うそも方便」と言うように、「嘘」をつくことで、人を守ることになると考えた上で、必要だと思って使うのかでは、同じ「うそ」を言っていても、実際には違うことをしているのだと思うのです。そして、この嘘をどこで言って、どこで言わないかは、それぞれの価値観、考えかた次第となります。
人間の生き方、行為は、結局のところ、最後は、それぞれの価値観による行為となるのです。そのうえで、わたしたちは、その価値観の中心に何をおいているかということが問われるのです。
私たちが、自分よりも上の存在、日本的にいえば「お天道様が見ている」ともいうかも知れませんが、神様という存在を信じる者と、信じない者での大きな違いがここに出てくる。その倫理観の一番根っこのところに、自分がいるのか、それとも神様がいるのか。私たちがその一番根っこのところに自分を置く時に、その倫理観はとてもあやふやであり、自分勝手で、自分中心のものとなってしまうのです。そして、お互いに共通しないところが出てくれば、一緒に生きることなどできない者となっていくのです。
3: イエス様の教える律法とは
イエス様は律法の廃棄ではなく、完成をされるために来られました。イエス様は律法をこのようにまとめられました。
マタイ22:37-40
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
イエス様は、「律法と預言者」つまり、今でいうところの旧約聖書ですが、その律法から新しいものを作られたのではなく、その律法を完成されたのです。それは、私たちが生きる道筋、生き方、価値観を教えてくださっているのです。聖書は「律法は罪を自覚させる」(ローマ3:20)と言います。律法は、私たちに罪を自覚させるのです。つまり、正しく生きることがどのようなことであるのか、正しくない生き方とはどのようなものか、を教えていると言うことなのです。それぞれにばらばらな価値観、倫理観ではなく、なによりもまず「神様を愛し」「隣人を愛する」という価値観のもとで、共通理解を持つように教えられているのです。
そして、この愛するということは、イエス・キリストを知ることなくては理解することはできないことなのです。ファリサイ派の義にまさる義、それはイエス・キリストによる愛に基づくものなのです。私たちの生きる正しい生き方。それは間違いなくいつも正しく生きることもそうですが、それ以上に、間違った道を歩き出したときに、もう一度立ち返り、悔い改める道を持っているということのほうが大切なのではないでしょうか。私たちは悔い改めることが赦されている。やり直すことができるのです。それは、イエス・キリストの愛によって、私たちはなによりも神様の前に、立ち返ることが赦されているのです。これがイエス・キリストの教えられる愛の律法です。 神様の愛のうちに赦されているということ、悔い改めて、立ち返って生きることが赦されている。立ち返る生き方。これが、私たちに与えられている生き方なのです。
4: 神様の愛を受け取る
私たちは神様の前にあって誰もが、罪ある者です。私たちが自分の行いによって正しいとされることはできないでしょう。しかし、それでも神様は私たちを愛してくださっているのです。私たちは、この大きな愛のうちに生かされているのです。この神様の愛を土台として生きていきましょう。 神様の愛を土台として生きていく。それは自分の弱さを自覚しながらも、神様の慈しみのうちに生かされている者として、生きるということです。私たちは「なぜ礼拝をするのでしょうか。」「なぜ祈るのでしょうか」それは、神様からの慈しみをいただく行為です。私たちは、神様の愛を確認し、その愛と慈しみを受け取り、悔い改めて、また新たな命を受け取って生きるのです。 今日もまた、主の御言葉から新たな恵みを受け取り、新たなる力を得て、歩みだしたいと思います。(笠井元)