1: 律法を守ること、軽視すること
イエス様は律法の完成に来られました。律法を否定したのではなく、律法主義に生きることが間違っていると教えられたのです。当時、ファリサイ派の人々は律法を守ることをとても大切にしていたのです。しかし、ファリサイ派の人々はいつの間にか「なぜ律法を守るのか」という根本的なことを忘れてしまっていたのです。
同時に、今日の言葉は、律法を守らなくても良いと誤解してしまうことに対する警告の言葉でもあるのです。イエス様は「自分は律法を廃止するためではなく、完成するために来た」と言われたのです。
2: あやふやな倫理観
律法主義に対する批判は、当時のユダヤの民が律法を大切にしようとしていたという前提があるのです。イエス様はそのうえで、本当に神様と繋がることをもう一度考えるように教えられたのです。
現代を生きる私たちは、生きるためのルールや規範、生きる指針、そのもの自体を持っていないのではないのかと考えさせられるのです。私たちも自分なりの生き方や倫理観を作っていくのかもしれません。しかし、それぞれが、それぞれに作りだしている倫理観はとてもあやふやなものではないのかと考えさせられるのです。
3: イエス様の教える律法とは
イエス様は律法の廃棄ではなく、完成をされるために来られました。それは、私たちが生きる道筋、生き方、価値観を教えてくださっているのです。聖書は「律法は罪を自覚させる」(ローマ3:20)と言います。律法は、私たちに罪を自覚させるのです。なによりもまず「神様を愛し」「隣人を愛する」という価値観のもとで、共通理解を持つように教えられているのです。
私たちの生きる正しい生き方は、間違った道を歩き出したときに、もう一度立ち返り、悔い改める道を持っているということなのではないでしょうか。私たちは神様の前に立ち返ることが赦されているのです。
4: 神様の愛を受け取る
私たちは神様の前にあって誰もが罪ある者です。私たちが自分の行いによって正しいとされることはできないでしょう。それでも神様は私たちを愛してくださっているのです。私たちは、この大きな愛のうちに生かされているのです。神様の愛を土台として生きていきましょう。(笠井元)