1. 自然の流れの中で
本来、最後の災いは超自然的な出来事と考えるものでしょう。エジプトの人間、家畜まですべての長子のみが死んでいくということは、超自然的な性格です。しかしながら、今日の箇所における「災い」という言葉は、他の箇所では「疾患」という意味で用いられる言葉でもあります。つまり、最後の災いも私たち人間の生きるこの世界の自然な出来事として起こされたと見ることができるのです。
自然の流れで災いが起こされていくことに何の意味があるのでしょうか。その一つに、私たちが生きている今、この時にも同じ災い、そして救いが起こされるという危機感、または希望をもって、この出来事を聞くことができるのです。
2. 立場の逆転
2-3節では、イスラエルの民とエジプトの民との関係が新しくされた、逆転されていくことを見ることができるのです。貧しい者であったイスラエルの民と、富んでいたエジプトの民の立場の逆転です。出エジプトの出来事が起こされる中では、ただイスラエルの民がエジプトから脱出したという、脱出劇だけの意味ではないのです。そこには、人間の生きる価値観の逆転が起こっていたのです。
3. 信念を持つことによる頑なさ
この時、すでにエジプト人の心はモーセを尊敬し、そしてイスラエルの民に好意を持っていたとされるのです。しかし、ファラオは頑なでした。ファラオと、エジプトの民との心の隔たりを見ることができるのです。エジプトの総責任者であるファラオは、自分の考え、信念を持っていたでしょう。自分の信念を持つことは大切ですが、囚われてはいけないのです。ここではそのファラオの一人の強情な思いによって、エジプト全土が悲しみと叫びに包まれていくのです。
4. エジプトとイスラエルの区別
イスラエルの民はエジプト人と区別されたのです。この区別は、人間が救いと裁きという二つのどちらかに区別されるという考えを生み出すことになる出来事です。ここでは頑ななファラオとその国エジプトが裁かれたのですから、頑なである者は裁かれると見ることもできるでしょう。
ただ、ここでは、イスラエルの民が純粋無垢であったとは記されていないのです。イスラエルの民もまた不平不満を言うのです。この区別は神様の救いにおける、主権性、憐れみを示すのです。だれかが何かをしたから救われるのではない。ただ、主の憐れみによって救われるということです。(笠井元)