1: 律法の限界
律法には限界がありました。それは人間の外面的行為しか問題にすることができないということです。律法の一番の問題は、自分自身が自分を裁く権利を持っていくところにあるのです。自分が何を考えているかは、行動にしなければ誰もわかることはないのです。しかし、それを自分は知っているのです。つまり、だれも裁いてくれないと同時に、だれも自分の持つ心の痛みを知ってくれることもないということなのです。そして自分で自分自身を裁いてしまうのです。
2: 裁く権利
イエス様の弟子のイスカリオテのユダはイエス様を裏切りました。その後自分の罪の重さを受け入れきれずに、最後は自分から命を絶ったのでした。ユダは、自分で自分を裁いたのです。イスカリオテのユダが本当の意味で神様を裏切ったのは、自ら命を絶った時でしょう。弟子のペトロもイエス様を「知らない」と3度も言いました。イエス様を裏切ったということでは、ユダも、ペトロも変わることはないのです。しかしペトロは、自分で自分を裁かなかったのです。ペトロは大きな失敗から、本当の意味での信仰を得たのです。
3: 殺すな 怒り
兄弟に「愚か者」ということは「お前などは死んだほうがましだ」というニュアンスを持つ言葉であり、相手を呪う言葉です。それはその者の存在を否定することでもあります。「あの人がいなければ」として、無関心になること、関係を遮断することは、その存在の否定につながっているのです。愛の反対は無関心であると言われます。イエス様が教えられているのは、この無関心の罪の重さと、そしてそこから関係を回復することの願いです。
4: 関係の回復
聖書は、神様の前に供え物を献げる前に和解をしなさいと教えています。私たちが和解できないとき、それは「自分は悪くない」と思っているのです。神様は、私たちが自分の正しさを主張することではなく、赦す心、愛する心を求められているのです。本当の正義を持つのは神様のみです。義なる方神様が下された裁きは、私たちの罪を、自分の正しさのゆえに裁かれたのではなく、愛と憐れみの中で赦してくださったのです。
私たちは神様の赦し、愛の中で生かされているのです。私たちが神様に差し出すべきものは、見た目として神様の前に正しく生きることではなく、頑なな心を砕かれ、神様の前に謙虚になることです。(笠井元)