1: 姦淫 人格を破壊する行為
今日の箇所は、前回の箇所と同じように、反対命題として、これまで旧約聖書において、「『このように言われている』しかし、わたしは言っておく」という言い方で、イエス様が教えられているのです。これはイエス様が旧約聖書を否定しているのではなく、むしろこの時、旧約聖書が曲解されている中で、その律法を完成されるために言われた言葉でした。
イエス様は今日の箇所ではこのように言われました。27節~28節、そして31節~32節をお読みします。27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。
今日の箇所におけるテーマは「姦淫」と「離婚」、つまり男女関係におけるイエス様の教えとなります。
まず「姦淫」ということについて学んでいきたいと思いますが・・・旧約聖書では十戒において、「姦淫してはいけない」(出エジプト20:14)と命令されています。「姦淫してはいけない」それは律法の中心である十戒において禁止事項として命令されているのです。ただ、この姦淫の定義がどのようなものとなるのかと考えますと、時代、文化、宗教によって、それぞれ考え方が違うものとなります。 未婚者の性行為や同性間での性行為を姦淫とすることもあれば、いわゆる不倫や強姦だけを姦淫とする考え方もあります。ただ、それぞれの文化や宗教によって、どこまで、なにをすれば姦淫というのかということは違ったとしても、その考え方は同じもので、人間がお互いにきちんと向き合わず、お互いの人格を尊重せず、その人格を認めないで生きるときに、それは姦淫の罪に陥っていくことになるのです。姦淫するとき、それは隣人の人格を破壊し、また、隣人の人間関係を破壊し、その生き方を破壊するのです。そのような意味で、姦淫とは創造主である神様を裏切り、神様の被造物である者を傷つける行為です。
神様はそのような行為を許されませんでした。他者の人間関係を壊してはいけないのです。「姦淫してはいけない」。「姦淫しない」ことは、他者の人格、人間関係を尊重すること、またその人の人権を尊重することなのです。
今日の箇所で、イエス様は、「姦淫してはいけない」という禁止事項に対して、ここではもっと根本的な問題があることを教えられたのです。イエス様は行為としての禁止事項だけではなく「心における問題」として教えられたのです。「行為として姦淫する」だけではなく、「心の中でも姦淫してはならない」と教えられたのです。このイエス様の言葉は、「律法を守ることによって救われる」と思う者たち、当時の律法学者やファリサイ派の人々に大きな衝撃を与える言葉となったことでしょう。また、私たちも、このイエス様の言葉を真剣に受け止める時に、どれほどの恐れをいだくのでしょうか。
「あなたは心の中で考えるだけで、すでに罪を犯している」と言われているのです。このイエス様の言葉をそのまま受け止める時に、私たちは、自分は罪人であるとしか言えなくなってしまうのです。
2: 神の祝福をむさぼってはならない
今日のイエス様の言葉は私たちの心の中までも突き刺します。それではイエス様は、私たちに、性欲を抱くこと自体を否定されたのでしょうか。そうではないでしょう。性欲を抱き、そして性行為を行うこと自体は至って自然なことであり、これも神様から与えられた一つの思いであり、神様が祝福された行為なのです。私たちは主なる神様に創造され、そこにはすでにお互いを求めあう心が与えられているのです。ただそれは行為としての性行為ということではなく、共に生きる、共に存在していく中での一つの行為として与えられているものなのです。神様はお互いに向かい合い、共に生きるための一つの祝福された行為として、私たち人間に性行為を行うことを許されているのです。
しかしまた、性行為は、主を中心として愛の一つの形としての行為ではなく、むさぼる行為となる危険性を持っているのです。つまり神様によって与えられた恵みを、人間は、自分の情欲だけに任せて、悪魔的行為としてしまうということです。このとき、人間は、お互いの人格を破壊し合い、また肉体的にも破壊することになるのです。十戒ではこのようにも言われているのです。「20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」(出エジプト記20:17)
聖書は「欲してはならない」と教えているのです。これはむさぼってはならないということです。人間が自分を中心に「このようにしたい」と思い、そのような思いだけで生きる時、それは他者を傷つけ、むさぼって生きることになるのです。
イエス様は、「心の中でも姦淫してはならない」と教えられるのです。イエス様は、ここで「あなたがたは罪人であり、そこから逃れることはできない」と宣告されたのではないのです。そうではなく、「あなたは自分のためだけに生きていないか。他者のことを忘れ、自分の欲望のままに、他者を見ていないか。あなたは他者と生きて、共に存在するということを忘れてしまっていないか。」と問われているのです。イエス様は私たちの生きる基準がどのようになっているのか、「もう一度、自分を考え直しなさい」と教えられているのです。
3: 結婚という形
今日の箇所において、イエス様は姦淫の事柄に続けて、離婚について語られるのです。この離婚のことをマタイでは19章において「創造」の事柄とつなげて、「結婚したものを引き離すべきではない」とは言いながらも、「12 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。」(19:12)とも教えられるのです。
結婚することは、神様の前に立つ、一つの隣人との関係を表します。それは「隣人と関係をもつ」という決意なのです。イエス様はこの形を、一つの人間関係として認められているのです。そして同時に、それ以外にも、人間はお互いに共に生きる関係を表す形があることをも認められているのです。現在の結婚に対する考え方は、ある意味とても否定的な形と考え始められていると言うことができるのではないでしょうか。結婚する必要性に対しての疑問。また結婚することによる、他者と共に生きることの難しさ、意志疎通の難しさからきているものでもあるのだと思うのです。「結婚してなにが変わるのか」「結婚することは忍耐でしかないのだから・・・」と否定的に考えられているのです。
しかし、このような考えが社会で語られ始めたということは、一つには、弱い立場の者が声をあげ始めたと言うことができるのだと思うのです。特に結婚という形に囚われた社会に押しつぶされ、苦しんでいた者がその声をあげることができるようになってきたと言うことができるのだと思うのです。
そのうえで、結婚について見てみますと、それは他者と共に生きるための一つの関係として見ることができる、神様の表す一つの人間関係における、希望としての形でもあるということを覚えておきたいと思うのです。妻と夫とが、どちらかがどちらかを支配するのではなく、同等の立場で、お互いの存在を喜び、支え合うこと。結婚は、人間関係において一番身近で、一番困難を伴う関係ということができるのではないでしょうか。そして、だからこそ、神様の導きを必ず必要とする形とも言えるのです。結婚という形は、神様の導きの中にあって、人間が共に生きることは困難でありながらも、不可能ではない、お互いを大切にするためには必ず神様の愛が必要であるということを教えられる、そのような形なのです。
4: 正しい愛の関係を目指して
聖書は、ここでは結婚という形をもって教えていますが、その中心にある思いは、人間がお互いを大切にする関係を築いていくように教えているのです。他者と正しい関係の中で生きることです。そして、それは、お互いを大切にして生きる。その関係に生きる決心をするように、教えているのです。
イエス様はこのようにも言われました。「29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
このイエス様の言葉は、実際に目をえぐりだすこと、また手を切ってしまうことを教えている言葉ではないのです。そうではなく、主イエスは、自分の何よりも他者を愛するように教えられているのです。わたしたちは、自分の手や目を大切にします。自分のことを愛しているのです。わたしたちは同じだけ、そして、それ以上に、他者を愛しているでしょうか。この愛による関係を作られたのは、まさにこの言葉を語られた方、イエス・キリストなのです。イエス様はただ、上から目線で、「こうしなさい」「ああしなさい」と言われたのではなく、イエス・キリスト自らがまず、わたしたち一人ひとりのために祈り、そして苦しみ、喜び、自分の命をかけて、私たちを愛されたのです。イエス・キリストの十字架は、神様が自らの命をかけて人間を愛された、その決心の出来事であったのです。主は、人間を愛すること、関係を持つ決心、決意をされたのでした。神様はこの十字架の形を持って私たち人間を愛してくださったことを表されたのです。私たちは、この神の愛を受けて、お互いに愛し合うように教えられているのです。そして結婚というのは、この主の愛を表す一つの形であり、そのための決意の出来事なのです。
私たちは他者を愛するときに、生半可な気持ちで、お互いを愛することはできないのです。時にお互いに傷つき、道を踏み外し、間違え、それでも力を合わせ、傷つけあいながらも、愛し合う。共に神様の愛にしがみついていく。そのような道を歩き出そうという決心が必要なのです。そして、この神様の愛を表す形は結婚という形だけではないのです。結婚という形はお互いに向き合う一つのモデルであり、同様にお互いに向き合う形なのです。わたしたちは、その形に囚われる必要はないでしょう。そのうえで、私たちは、お互いがお互いに力を合わせ、また傷つけあいながら、間違えながらも、お互いを認め、生きていく決心をしていきたいと思うのです。私たちは今、お互いに愛し合う決心をしましょう。つまり神様の愛に従っていく決心です。隣にいるすべての人と、共に生きるという形をもって生きていく、そこに神の愛が表されることを喜んで生きていきたいと思います。(笠井元)