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2017.9.10 「見えないものに目を注ぐ」 (全文) Ⅱコリントの信徒への手紙4:16~18

1:  養い主なる方

 今日は、敬老特別礼拝です。わたしたちは、お祈りをするときに「・・・なる神様」と、神様がどのような方なのかを付け加えることが多いのではないでしょうか。イエス様はご自身がゲッセマネで祈った時には「アッバ父よ」(14:36)と呼び求め、また主の祈りでは「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えました。そのため「父なる神様」と呼び求める方も多いかもしれません。ただ今は、「父なる神様」と呼び求めることは「男尊女卑」の考えにつながるため、また「父親」との関係が、そのまま「人間と神様」の関係に当てはまるものではないとされることから、「父なる神様」と呼び求めることも、問題視されています。

 神様には様々な側面があります。「命の造り主なる神様」「恵み深い神様」「導き主なる神様」などなど、様々な呼び方があるでしょう。その中で、わたし個人としては「養い主なる神様」という言葉がとても好きなのです。「養い主」。わたしは神様が「養い主」であると思う時、それは私たちが自分で生きているという思いから、神様が、私たちの一日一日を養ってくださり、生かしてくださっている方であると考えを新たにされるのです。神様は、私たちを創られただけではなく、今も、創られた命を愛して養ってくださっているのだと、教えられるのです。

 私たち人間はどうしても、日々の生活に追われていくなかで、いつの間にか、自分で生きている、自分で自分の命を手に入れている、自分の命は自分のものであると勘違いをしてしまうことがあるのです。そのような思いの中では、よいことがあり、なにかうまくいけば自分の力によるものだと思い、また悪いことがあれば、それもすべてが自分の責任だと思ってしまう。そのような意味では、自分の命は自分のものだと思うこと、これは時に、私たちを傲慢にさせ、時に、私たちを重い責任に縛り付けるのです。

 「養い主なる神様」と祈る時、「ああ、私たちの命は神様によって造られ、養われているのだ」という、安心をいただくことができるのです。私たちは一分一秒でも、神様の意志がなくては生きることはできないのです。「養い主なる神様」と祈る時、私たちは、神様の意志によって、今、命を与えられ、今、愛されているのだと、教えられるのです。

 

2:  この世の人生観

 それに対して、わたしたち人間の考える、この世の人生観はとても虚しいものだと思うのです。

 グリム童話に「寿命」というお話があります。これは神様が人間と、ロバと犬と猿、それぞれに寿命を与え、その長さを決めていくというお話です。

 神様は、ロバの寿命を30年にしようとしました。しかし、ロバは「30年は長すぎます。私は朝から晩まで重い荷物を運ばなければならないのです。そのような日々が30年も続くのは長すぎます。どうか寿命をもう少し短くしてください」と言うのです。そのため神様はロバの寿命を18年にしたのでした。また同じように神様は犬の寿命を考え、犬は30年でよいかと尋ねたのです。すると犬は「30年は長すぎます。わたしはそんなに走ることはできません。また歯も10年ほどで抜けてしまい、かみつくことも出来なくなります。そしたら、わたしは隅っこにひっこんでいるしかなくなります」と言うのです。そのため、神様は犬の寿命を12年にしたのでした。また同じように神様は猿の寿命を考え、猿にも30年でよいかと尋ねるのです。猿はロバや犬のように、働く必要もないと思ったのですが、猿は「こう見えても実は、わたしはみんなを笑わすために、なにかおかしなこといたずらをしているのです。みんなに笑われている姿で30年も過ごすことなどできません。」と言うのです。そのため神様は猿の寿命を10年にしたのでした。

 そのあと最後に、神様は人間に、あなたの寿命は30年でよいかと尋ねるのです。人間は、これまでの動物とは違い、「30年なんて・・・短すぎます。家を建て、木を植えて、自分の暮らしを楽しもうと思ったら、もう死ななければならないじゃないですか。もっと延ばしてください」と言うのです。そのため神様は「ではロバの分の12年を足してあげよう」と言うのです。しかし、人間は、「それでは足りません」と言うのです。それに対して神様は「では犬の分の18年もたしてあげよう」と言います。しかしそれでも人間は「まだまだ足りません」というのです。神様は「それでは猿の分の20年もあげよう」と言い、人間を帰らせたのです。こうして人間の寿命が決まったのでした。

 そして、人間は、はじめの30年を元気に暮らし、生活を楽しむのです。30年が過ぎてから、次にロバの12年がやってきました。人間はこの12年ロバのように重荷を負わされ、苦労し、働くことになったのです。そして次に犬の18年がやってきました。その頃になると、人間は足腰も弱り、歯も抜けていき、隅っこに追いやられていくのです。そしてその18年が過ぎて、最後に猿の20年がやってきたのです。そこでは、だんだんと頭もにぶくなり、笑われるつもりではなくても、笑われてしまう。そのようになっていったのです。

 これが人間の一生だという、グリム童話の「寿命」というお話です。

 ここでは、人生で良い時期は30年ほどで、誕生から少年期、青年期までであり。そのあとは重荷を負い苦労し続ける中年期。そして体が衰えていく老年期と。そのような人生観を表しているのです。ここでは若さは良いことであり、年をとり老いていくことはマイナスであると言っているのです。これがこの世的な人間の人生観なのかもしれません。よいこと、楽しいことがあればそれは喜びであり、つらいこと、苦しいこと、力がなくなることは、悲しいことである。確かに、困難は苦しいです。そしていつまでもただ楽しいことが続いていれば・・・と思うこともあるのですが、このような人生の考え方はとても虚しく、悲しいものだと思うのです。

 

 聖書は、人間の命をそのようには見ていないのです。聖書が教えている命とは、何かができるからそれが素晴らしく幸せである、また何もできないから、それは虚しく、価値のないものであるとは考えていないのです。私たちの命は、神様に与えられ、養われている。それはいつの日でも、どのような者でも、どれほど力があっても、またどれほど困難のなかにあっても、どれほど喜びの中にいても、悲しみの中にいても、私たちは神様によって生かされ、養われ、愛されているのです。それは変わることがないのです。そこに生きていること、命が与えられていることは、神様の意志によるものであり、神様が必要とされている存在として、愛されている存在として、私たちは生きているのです。

 

3:  日々新たにされる

 聖書はこのように教えます。4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(16)この世の価値観では、衰えていくこと、つまり何かを失っていくこと、弱くなることは、「落胆する」ことなのかもしれません。そして、誰がなんと言おうとも「外なる人」、つまり、私たちの肉体は日々成長し、力を得、そしてその後、確かに日々衰えていく、力を失っていくのです。このことはだれも変わらない出来事なのです。しかし聖書はそのことを「落胆しない」と言うのです。聖書は、衰えていくこと、失うこと、弱くなることは、ただ悲しみで終わることではないし、落胆することではないと教えているのです。

 今日の箇所と同じ第二コリントでは12章9節において「『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(12:9)とも教えています。 「弱さのうちにこそ、キリストの力は発揮されるのだ。私たちは自分の弱さを喜びましょう」と言うのです。これが聖書の価値観です。「『内なる人』は日々新たにされる」とはまさにこのこと、弱さを喜ぶ価値観によるのです。

 

 そして、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていく。この「内なる人」が新しくされていくことを聖書は別の箇所ではこのように教えています。エフェソ3:16-17「3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」わたしたちの「内なる人」が新しくされるということ、それは私たちが心のうちに、キリストを住まわせること、その愛に根ざし、愛に立つ者となることです。

 神様は私たちを愛しておられます。それは、自らが弱き者となられたところから始まったのです。主イエス・キリストが、この世に来られた。そして十字架の上で、ののしられ、殺された。弱く、小さく、力ない者として、イエス様は殺されたのです。これが、神様による表された救い主イエス・キリストの姿です。これが、神様の示された愛なのです。

 神様は、この神様の愛を心のうちに受け入れることを願っておられる。自ら愛する、私たちが、その愛に根ざし、愛に立つように願っておられるのです。

 

4:  見えないものに目を注ぐ

 最後に、18節からの言葉「見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」という言葉を見ていきます。聖書は「18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(18)と言います。 見えるもの、それは一時的であり、いずれ過ぎ去るものなのです。この世における財産や権威、知恵や名誉など、それはいずれも一時的なものです。財産や権威、知恵や名誉は、それぞれがそれぞれに、なにか悪いものであるわけでもなければ、必要のないものではないのです。むしろその一つひとつも、また神様からいただいている大切な宝物なのです。他者の飢えや痛みや問題を助けるのに、財産や知恵があれば、私たちはお互いに助け合うことができるでしょう。お金も、時間も、能力も、それは神様からいただいた大切な宝物なのです。しかし、それでもまた、それらは、最後の時、死に打ち勝って、それ以降ももっておられるものはないのです。すべては死によって覆い尽くされてしまうのです。

 それに対して、見えないものは死をも打ち破るものであり、永遠に変わることがないのです。見えないもの。それは私たちの内なる心に来られたキリストです。イエス・キリストは、十字架という死を打ち破り、新しい命を生きる道を造られたのです。

 これが神様の愛です。この神様の愛は、死をも打ち破り、いつまでも変わることのないものなのです。先ほど言いましたが、お金も、時間も、知恵も、力も、すべての能力は神様からいただいた大切な宝物なのです。しかし、そこに愛がなければ、それは何の意味ももたないのです。そこに愛がなければ、それは争いのもとになり、争いを深めるものとなるのでしょう。神様の愛は目で見ることができないものです。神様が隣にいてくださることは目に見えないのです。しかし、神様は確かに、私たちの隣にいてくださるのです。私たちが力を失い、衰え、弱くなるとき、神様は、共に、力を失い、衰え、弱い者となられ、そのうえで、日々新たな命を与え、養い、そこに希望を与えてくださっているのです。

 今、わたしたちはこの世に生きている中で、神様の愛に目を注ぎたいと思うのです。神様の愛、永遠の命は、いつか、死んだ後にくることを待ち望むだけではなく、今、この世で目を注ぐことができる。それが神様の愛です。日は敬老特別礼拝ですが、生きること、生かされていることは、神様の愛を知ることであり、神様の愛を喜ぶことであり、神様の愛を受けて、心に根ざしていくことです。わたしたちは神様によって生かされている、この命を共に喜びましょう。

 わたしたちは今、隣の人に目を注ぎましょう。わたしたちは神様を見ることはできませんが、私たちはそこにキリストの愛を感じることができるのです。自分が一人ではないということ。隣に自分のために祈ってくれる兄弟姉妹がいるということ。その愛を感じ受け取っていきましょう。そして、共に励まし合い、祈りあい続けていきたいと思います。祈ること、祈りあうことは、私たちに与えられている、神様の愛による恵みです。力があってもなくなっても、祈ること、祈られることはできるのです。神様は私たちのためにいつまでも祈り続けてくださっているのです。弱くなっても、力なくても、体が衰えても、養い主なる神様に目を向けていきましょう。わたしたちは、今、見えないものに目を注いでいきましょう。それは、永遠に存続する神様の愛です。そしてこの神様の愛を受け、日々新たにされて生きていきましょう。(笠井元)