今日は、召天者追悼記念礼拝です。最近、日本社会でもハロウィーン(halloween)が取り入れられるようになりました。「聖徒たち(hallows)を思い出す日」です。商業主義は問題ですが、主イエスの懐にあって復活を待っている、すでに召されて人たちを「思い起こすこと」は大切なことです。皆さんは、誰を思い起こすでしょうか?また、だれから「思い起こされる人」になるのでしょうか?
1.教会は現在教会を形成している人たちと、今は召されてキリストにおいて生きている人々とによってなっている
2.神に記憶される幸い
そのような意味で、今朝は、神に記憶される人の幸いを歌っている詩編112編をテキストに選びました。6節では、「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼あるいは彼女はとこしえに記憶される」と言われています。「とこしえに記憶される」。最初この節を読んだ時に、ちょっと心が躍りました。 詩編112編は111編と対になっています。「いろは歌」と言われていて、詩の最初の文字がヘブライ語の「アレフ」「ベート」「ギンメル」「ダレット」と続き、22文字の順序で綺麗に整理されています。111篇は主なる神について賛美の歌を歌い、112編は、主を畏れる者たちの幸いが歌われています。このような平行において、111:4の「主は驚くべき御業を記念するように定められた」(ゼケル)とあり、112:6は「主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼あるいは彼女はとこしえに記憶される(レゼケル)」と言われています。原文は「主に従う人は、永遠の記憶に向かって存在するであろう」というような表現です。
3.人間の記憶の限界
私達の記憶はいつしか薄れていきます。それが人間の限界ではないでしょうか。あるいは、逆に、忘れることもまた、人間の能力でもあるのかも知れません。血が流れ、カサブタになった傷を敢えて剥がすこともないでしょう。主なる神は、閻魔様のように、全ての私たちの悪事を書き留めて、記憶しておられるというよりも、信仰の働きだけを記憶して下さるのです。
4.闇のような経験
聖書は確かに私たちが思い出したくないような闇を経験することを知っています。4節では、「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」と言って「闇」の存在を知っています。
5.記憶されるように生きる
老いること、やがて死ぬことは避けることはできません。しかし、死の力が私たちを支配するのではないのです。私達は死を絶対視し、死が神であるか、運命であるかのように、死を偶像としてはなりません。主なる神と人々から「とこしえに記憶されるべく」、私たちは、主を畏れ、その戒めを深く愛し、まっすぐな人として、憐れみに富み、情け深く、豊かに貸し与える人として生きたいものです。(松見俊)