1: イエス様の時代に行われていた誓い
イエス様は「一切誓ってはならない」言われました。当時、イスラエルの人々は「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」、「自分の頭にかけて」と誓っていたのです。「天にかけて」と言う時は、だいたい90%くらい信頼できる約束であるとし、「地にかけて」と言えば80%、「エルサレム」は70%であるとされていたようです。
私たちは「自分の命にかけて」と誓うことが多いのではないでしょうか。「自分の命にかけて」というのは、とても信頼性のある言葉に聞こえます。しかしこの言葉は命が自分のものであると勘違いした言葉なのです。わたしたちは神様に命を与えられている。神様に生かされているのです。
2: 誓いによる言葉の意義の低減
いろいろなものにかけて、いろいろな形でなされていた誓いは、誓うということ自体が信頼性を失っていました。誓って語る言葉に信頼性が失われてきていたのですので、日常的に話される言葉はもっと信頼性がなくなっていたのです。そのような中で、イエス様は「誓ってはならない」と教えられるのです。それは誓いの言葉だけではなく、すべての言葉に対して誠実であり、責任を持つべきだと教えられているのです。
3: すべての言葉に誠実である
イエス様は、私たち人間が自分の言葉に対して誠実であるようにと語られているのです。イエス様は日々語るすべての言葉が「誓い」であり、責任を持っているのだと教えているのです。
わたしたちは、自分の言葉にどれほどの責任を持って話しているでしょうか。言葉が、どれだけ他者の心に残り、時に、喜びを与え、時に、悲しみや苦しみを与えているか、責任をもって話しているでしょうか。神様の前にあって真実の言葉を語っているでしょうか。
4: 神の愛を「然り」と言う
「然り」を「然り」と言い「否」を「否」と言う。何もごまかすことなく、「はい」か「いいえ」どちらかだけで答えなさいと言っているのです。私たちが神を愛し、神に誓うのではなく、神様が、私たちを愛してくださっており、私たちを救いだし、生かしてくださっているのです。私たちはこの愛を「はい、あなたが信じさせてくださることを受け入れます」と、神様を主体に生きていくことが、私たちの信仰なのです。私たちは、この神様の愛を「然り」と「はい」と素直にいただいていきましょう。(笠井元)