1. 除酵祭
除酵祭を行う理由は、「エジプトから神様が救い出してくださったことを覚えるため」です。出エジプトの時、神様が何をなされたのかを覚えるのには、「過越祭」、「初子の奉献」のほうがわかりやすいのです。除酵祭は、神様の救いの出来事が「あわただしく」「せっぱつまった」中で起こったことを表します。「何が起こったのか」ということもですが、そのとき「どのような気持ちがあったのか」ということを再現し、救いの緊迫感を伝えるのです。
2. 初子の奉献
11節から初子の奉献について記されています。初子とは、神様からいただいた初めての命です。この命を神様にお返しするように教えられているのです。それは、なによりも、「命」とは自分のものではないこと、神様からいただいたものであるということを覚えるためです。神様がすべてを創造された。命の創造主を覚えて、その命は神様からいただいたものであると、再確認するためです
3. 体に記憶する
「除酵祭」と「初子の奉献」において、これまでになかった言葉として「印」について教えられます。9節、16節。ものごとを頭のなかだけで正確に覚えておくことはなかなかできないでしょう。この箇所は決して忘れてはいけない出来事として、エジプトからの救い、奴隷として生きていた者が解放されたことがあると教えているのです。イスラエルは救い出された。そのすべてを、きちんと正確に覚えておくために、印を持つように教えられたのです。
4. 誘惑に対する信仰の継承
5節、11節 除酵祭と初子の奉献は、神様がイスラエルに約束した地、カナンの地に入る時に、主の救いの出来事を忘れないためにとも教えているのです。カナンの地に導き入れられる時は、荒野を越えて約束の地に入る時です。安住の地に着いた時でもあり、また他の宗教、文化が入ってくるときでもあるのです。安住の地にたどりついた時、困難を乗り越えた時は、ある意味、神様を忘れてしまう誘惑が近づいている時でもあります。また、他の宗教に出会いながら、そのうえで自分の信仰を持つのは大変なことなのです。ここに除酵祭と初子の奉献という行為が必要であることを教えているのです。
5. 生きた信仰
今日の箇所で、一番学ぶべきは、イスラエルが受け取った信仰は生きているということです。5節、11節のイスラエルの民がカナンの地に入った時とは、これから起こることを見ているのです。 今日の箇所は、今だけではなく、未来を見ているのです。これからも、主に仕え続けるため、その救いを覚えていくため、神様に従い続けるためのことなのです。この言葉は、まさにいつも生きた信仰を持ち続けるための言葉なのです。(笠井元)