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2017.10.29 「何も要りません。信仰以外は」 (全文) ローマの信徒への手紙3:20~26

 

① 宗教改革500周年

 皆さん、今年2017年は、キリスト教にとって重大な節目の年である事をご存知でしょうか。

 宗教改革という言葉を聞いたことがあると思います。宗教改革とは、1517世紀頃にかけて起こった、キリスト教内の様々な改革・変革の事を総称したものです。宗教改革により、教会はカトリックとプロテスタントに分かれ、さらにプロテスタントの中でも、様々な宗派に分かれていきました。私たちバプテスト教会のルーツも、ここにあります。

 宗教改革の中身は、様々な人による様々な活動であり、「何年から何年が宗教改革だ」と言うように範囲を決めることはできませんし、「誰だれが起こした運動だ」とも言うこともできません。それでも、宗教改革に最も貢献した人物として、マルチン・ルターを挙げることができます。ルターは、神学討論をするための提題を、教会の扉に貼り付けたと言われています。いわゆる「95か条の提題」と言われるものです。そしてこの事が、宗教改革の運動を加速させる、大きなきっかけとなりました。

 ルターがこの95か条の提題を提示したのが、今から500年前、1517年の1031日です。以来、1031日が宗教改革記念日とされており、そして今年が、「ルターが提題を提示した年から500年目の記念の年であります

 ルターのいた当時は、教会で神学討論をするのは一般的で、討論の議題を教会の扉に貼り付けて告示することが習慣でした。ルターもその習慣にならって、自分の発題を貼り付けたようです。彼は何も、果たし状を叩きつけたのではありません。教会内の勢力図をひっくり返そうとか、分裂をもたらそうと思っていたのではありませんでした。自分が聖書から学び取った福音理解や、教会のあり方についての見解を提示し、それに対して他の神学者の見解を聞きたい、討論をしたいという姿勢でした。

 ルターの提題の中心にあったものは、「人は、信仰によってのみ義とされる」という信仰です。彼は95か条の提題に、「贖宥の効力を明らかにするための討論」というタイトルを付けています。「贖宥」とは、「罪を軽くする・弱める」という意味です。当時の教皇(教会で最も権威ある人)は、「これを買えば、あなたの罪は軽くなります」と唄って、贖宥状という紙切れ(以前は免罪符と言っていたもの)を人々に売っていました。そこでは、「箱の中に金がチャリンと鳴れば、魂はピョンと天国にとびあがる」というふうに唄われていました。贖宥状を買えば、すでに亡くなった先祖の魂も、天国に行くのだと言っていたのです。このように、神の救いの御業を「浅はか」なものにするような行いに対して、ルターは問いを投げかけたわけです。

 では、この贖宥状の問題は何でしょうか・・・。いろいろあると思いますが、一言で言うならば、「悔い改めを必要とせず、罪の赦しが手に入る」ということでしょう。お金さえ払えば、罪が軽くなるのです。罪の自覚や悔い改め、信仰といったその人の心は、重要ではなくなってしまいます。しかし、本当にそれで罪が赦されるのでしょうか?

 

② 加害者と被害者の例え

 例えば、あなたに対して何か罪を犯した人がいたとします。その人は裁判で有罪判決を下され、懲役何年、また罰金や賠償金がいくらというように、刑が課せられました。その人は課せられた期間刑務所に入り、また支払うべきお金も全額払い、刑期を終えました。しかしその人は、これまで1度も謝罪をしませんでした。あなたに対して「ごめんなさい」の一言もありませんでした。反省の色はまったく見えません。それどころか、「刑期は全うした。罰金も全額払った。何か文句あるか?」そういう態度です。さてあなたは、この人を許すことができるでしょうか?

 もしかしたら心の広い皆さんの中には、「もういい。許してやる。」と、口では言える人もいるでしょう。(私はそこまで心が広くないので、口で言うこともできませんが)しかし本当に心からその人を許すということは、できないのではないかと思います。その加害者が自分の罪を自覚し、「私は悪いことをした」と言って悔い改めない限り、私たちの怒りは収まらないのではないでしょうか。

 つまり、その加害者がいくら刑罰を受けて賠償金を支払ったところで、法律的には許されても、本当に許してもらうべき人からの許しは得られないのです。罪を犯してしまった人が自分の罪を悔改め、その人とあなたの間で和解が起きて初めて、その人は許されたと言えるのではないでしょうか。刑期を全うすることや、賠償金を支払うこと、あるいは500年前の教会が教えていたように贖宥状という紙切れを買うこと、そのような人の行為によっては、本当の赦しは無いのです。今日の聖書箇所にあるように、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」のです。

 

③ 神の義・イエスキリスト

 私たちには罪があります。聖書の言う罪とは、神との関係の破れを言います。アダムとエバは、神様に「食べてはいけない」と言われていた木の実を食べました。その時罪が入り込みました。その後神様がエデンの園にやってきた時、2人は神の目を避けて隠れました。神との関係が破れてしまっていたのです。 

 私たちにもこの罪があります。私たちは神の前に立たされて、有罪判決を下され、刑罰を受けなければならない存在です。懲役や罰金が課せられるように、法的責任が問われるわけです。私たちはやはり、罪を償わなければならなかったのです。

 「償わなければならなかった」、と私は過去形で言いました。そうです、それは過去の話です。聖書にはこうあります「ところが今や」「神の義が示された」。ここで、驚くべきことが起こったのです。

 裁判長である神が、私たちを裁いて、有罪判決を下す側にいる神ご自身が、被告人である私たちの罪を、私たちの代わりに負ってくださったのです。全く有り得ないようなことがおこったのです。裁判長が被告人の罪を負ってくださったのです。

 では神様は、法廷の長、法の支配者として、その権力でもって罪を帳消しにしたのでしょうか・・。そうではありません。正義の神は、罪を裁かずにはおられません。そこで、私たちの罪を負った神様は、その自らを裁いたのです。それが、十字架の出来事です。

 

 神様は自ら私たちの元に来られ、一人の人間になられました。部分的な人間ではなく、完全な人間です。私たちと何一つ変わらないその体で、私たちと同じように多くの苦しみを受け、痛みを経験しました。血を流し、涙を流されました。そして、私たちの罪を負い、私たちの代わりに罰を受けてくださったのです。それは、懲役や罰金という程度のものではありませんでした。死刑。それも、当時最も残酷な刑だった、十字架刑という究極の手段によって、私たち全ての人の負うべき刑を担ってくださったのです。この方が、イエス・キリストです。この救いの業が、神の義なのです。

 今日の聖書箇所の25節にはこうあります。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」

 神が地上に降りて来られ、完全な人となられました。それがイエス・キリストです。その、神ご自身であるイエスが、十字架にかけられ、血を流し、命絶たれました。それは、私たちの罪を償うためでした。このことによって私たちは、罪が許され、その負うはずだった刑罰から開放されたのです。

 律法によるならば、裁かれるべきは私たちでした。しかし神様は、律法とは関係なく、ただ神の愛の故に私たちを贖ったのです。「神は人間の罪を負わなければならない」という律法はどこにもありません。それは、完全に神の愛による行為であり、神の一方的な恵みなのです。

 そして同時に、贖いの業であるイエス・キリストの十字架は、律法を全うしたのです。傷の無い小羊として、罪の無いイエスが、「罪を償う供え物」とされたのです。これは、預言者によって言われていたことでした。律法によって、そして預言者によって、神による贖いが証明されているのです。

 

④ 誰もが義とされる

 このイエス・キリストを信じる者全てに、神の義が与えられます。信じる者全てです。「そこには何の差別もありません」と聖書には書いてあります。信じる人なら誰でも、「神の恵みにより無償で義とされるのです」。お金持ちも貧乏も関係ありません。教会に来てるか来てないかも関係ありません。老人だろうが、あるいは子どもだろうが、健康であろうが病人だろうが関係ありません。それどころか、どんなに人を傷つけてしまった人でも、どんなに悪いことをした人でも、どんなに今、心の中に憎しみや恨み、妬み、怒りなどが溢れている人でも、どんなに今傷つき、苦しみ、悲しんでいる人でも、ただイエス・キリストを信じるならば、その人は義とされています。そこには一切の差別もありません。信じるかどうか、それ以外には何一つ問われていないのです。必要なのは、信仰だけなのです。

 

⑤ 信仰とは

 では、信仰とは何でしょうか。神を理解するということでしょうか・・・。そうではありません。もしそうなら、ここに信仰を持っている人は1人もいないでしょう。そもそもイエスの十字架が、理解し難い出来事です。神であるイエスは人であり、その方が私の罪を負った?理解できません。しかし、それを理解しろと言っているのではありません。そうではなくて、信じるのです。

 「信じる」と言うとき、その対象は未知なるもののはずです。見たことがないもの、あるかどうか分からないことに対して、「信じる」ということがおこります。そうであるかどうか分からない、分からないけど信じる。それは、「そうである」という事に望みを置くということです。

 「イエスを信じる」ということは、イエスに望みを置くということです。イエス・キリストはおられ、私の罪を償ってくださった。そのことに望みを置くのです。

 また、新約聖書の元の言語であるギリシア語では、「信じる」という言葉に「委ねる」という意味も含まれています。信じることは、委ねることにも等しいと言えます。

 例えば、私たちが飛行機に乗ることができるのは、飛行機は落ないと信じているからです。落ちないと信じているから、飛行機に乗って、シートに座っていられるのです。そしてそのときには、私たちは完全にその身を飛行機に委ねており、またパイロットに委ねています。

 同じように、「イエスを信じる」ということは、イエス様に委ねるという事でもあります。自力では自分を救うことができない、ただ落ちていくだけの私、罪を持ち、苦しみや傷を持ち、あらゆる重荷を負っている私を、ありのままイエス様に委ねるのです。それが信仰です。

 私たちは、信仰を持つためには、どんな行いをも必要としません。あなたが自分の心の中で、イエス・キリストの十字架による贖いに望みを置き、そしてイエス・キリストに、ありのままの自分を委ねることができたなら、あなたはもう信仰を持っています。そしてあなたはその信仰の故に、その他の一切を問わずただ信仰の故に、神によって無償で義とされています。

 どんな行いでもなく、イエス・キリストを信じる信仰を、神様は見ておられます。そしてその信仰は、何の差別もなくあらゆる人に、持つことがゆるされているのです。聖書の語る救いは、全ての人に開かれています。(安里道直)