宗教改革500周年
宗教改革という言葉を聞いたことがあると思います。宗教改革とは、15~17世紀頃にかけて起こった、キリスト教内の様々な改革・変革の事を総称したものです。私たちバプテスト教会のルーツも、ここにあります。
宗教改革に最も貢献した人物として、マルチン・ルターを挙げることができます。ルターは、当時の教会の行いについて神学討論をするため、「95か条の提題」と言われる問題提起を教会の扉に貼り付けたと言われています。そしてこの事が、宗教改革の運動を加速させる、大きなきっかけとなりました。ルターがこの95か条の提題を提示したのが、今から500年前、1517年の10月31日です。以来、10月31日が宗教改革記念日とされており、そして今年が、ルターが提題を提示した年から500年目の記念の年であります
ルターの提題の中心にあったものは、「人は、信仰によってのみ義とされる」という信仰です。当時の教会では、「これを買えば、罪が軽くなる」と唄って、贖宥状(免罪符)を売っていました。お金で罪が軽くなるという、神の救いの業を軽薄なものにするような行いに対して、ルターは問いを投げかけたわけです。
加害者と被害者の例え
例えば、あなたに対して罪を犯した人がいて、その人は裁判で有罪判決とされ、懲役や罰金が課せられました。その人は刑期を全うし、罰金も全額払いました。しかしその人が、これまで1度も謝罪をしなかったら、あなたはその人を許せるでしょうか。おそらくその人を許すということは、できないのではないかと思います。その加害者が自分の罪を自覚し、「私は悪いことをした」と言って悔い改めない限り、私たちの怒りは収まらないのではないでしょうか。
つまり、その加害者がいくら刑罰を受けて賠償金を支払ったところで、法律的には許されても、本当に許してもらうべき人からの許しは得られないのです。罪を犯してしまった人が自分の罪を悔改め、その人とあなたの間で和解が起きて初めて、その人は許されたと言えるのではないでしょうか。刑期を全うすることや、賠償金を支払うこと、あるいは贖宥状という紙切れを買うこと、そのような人の行為によっては、本当の赦しは無いのです。今日の聖書箇所にあるように、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」のです。
神の義・イエスキリスト
律法によるならば、裁かれるべきは私たちでした。しかし神様は、律法とは関係なく、ただ神の愛の故に私たちを贖ったのです。それがイエス・キリストの十字架の出来事です。そしてこのイエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは義とされるのです。信じる人なら誰でも、「神の恵みにより無償で義とされるのです」。(安里道直)