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2017.11.19 「大魚の腹の底から主に叫ぶ」 (全文) ヨナ書2:1~11

 西南学院の宗教局長として、毎朝聖書を1章よみ、学院のために祈ることを日課としています。9月から、ホセア、ヨエル、アモス、オバデヤといわゆる12小預言書を読んでいました。イスラエルの不信仰と社会的不正義を批判する預言者たちの余りの鋭さに少し閉口気味でしたが、ヨナ書を読んで、正直、ほっとしました。ヨナ書はヘブライ語聖書では、新約聖書に最も近い書物であると言われ、イスラエルの自国民中心主義を批判する書として重要な文献です。

 ヨナは大嵐の責任を問われて、手足を縛られ、海に投げ込まれ、「パクリ」と大きな魚に飲み込まれてしまいました。ピノキオという童話に確か、大魚に飲み込まれてしまう場面があり、魚の喉ぼとけではないですが、そこを「こちょこちょ」とくすぐると魚がクチャミしてピノキオを吐き出したという箇所があったことを記憶しています。多分、このヨナ書の影響があるのでしょう。

 当時イスラエルの人にとって海は混沌、恐怖の対象であり、そして、大きな魚に飲み込まれたのですから、この世界のどん底のどん底経験です。そのようなどん底の八方塞がりの中から、「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった」と歌われています。いったいヨナはどうしてこんなことになったのでしょうか?

 

1.逃亡者ヨナとヨナの使命

 ヨナは、主の前から逃げ出します。ヨナは「逃亡者」です。3節では「ヨナは主から逃れようとして」と言われ、同じ3節の後半にも「主から逃れようと、タルシシュに向かった」と繰り返えされています。ヨナは「逃亡者」でした。なぜ、ヨナは主なる神の前から逃げるのでしょうか?ヨナ書は「主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んだ」という言葉で始まります。主なる神とヨナとニネベの町がこの物語に登場しますが、「主なる神」がしばしば、主語で登場します。4節「主は大風を海に向かって放たれた」、2:1「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」。11節「主が命じると、魚はヨナを陸地に吐きだした」。ヨナはこの主なる神から逃げ出した男でした。なぜでしょうか?「大いなる都ニネベに行ってこれに呼び掛けよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」(1:2)とあります。「ニネベ」は強大な敵国アッシリアの首都です。現代のイラク北部ティグリス川沿いの町です。するとヨナ書の時代背景は、紀元前8世紀頃でしょうか? アッシリア人は紀元前721年北イスラエルに侵入し、エルサレムも占領することになります。憎き敵国です。ところが、ヨナの使命はイスラエルの敵国の首都ニネベに行って、悔い改めを説教することでした。ヨナにとっては「冗談じゃない。そんな仕事ができるか」というところでしょう。どっちに転んでも立つ瀬がないのです。もし、ニネベ、テロと暴力と不正に満ちたニネベの町が預言者の言葉に耳を傾けないなら、無視された預言者はあざ笑いの種です。しかし、もし、ニネベが預言者ヨナの言葉に耳を傾け、悔い改めるなら、神はニネベを滅ぼすことをせず、敵国の首都ニネベは生き残ることになるのです。そして、ヨナには、どうもそのようになる予感がしたのです。3:2-3を読んでみましょう。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。主よどうか今、わたしの命を取って下さい。生きているよりも死ぬ方がましです」。ですから、ヨナは主の前から逃げ出したのです。もしヨナの説教によってニネベの人が悔い改めたら、主なる神はニネベに審きを与えず、ニネベは生き延びることになります。ニネベは神から滅ぼされて当然、「様を見ろ」ですが、ニネベの民がヨナの説教を聞いて悔い改めたら敵国が生き延びてしまうのです。そんな仕事は真っ平ごめんだというわけです。

 

2.丁度首尾よく?

 そんなわけでヨナは主から逃れようとしたのです。彼は北のニネベの方角に向かわず、逆の南西の港町、地中海沿岸のヤッハに向かいます。現在のテル・アビブの近くです。すると、スペインのタルシシュ行の船が見つかったというのです。「折よくタルシシュ行の船が見つかった」。このように何かの事件や自然界の問題が起こると、神が私を助けてくれたのではないか、あるいは、悪いことが起これば、神が何かを警告しているのではないかと思ってしまいます。ヨナの場合は、まさに折よく、タルシシ行の船が出る処で、これこそ神の助けとばかり飛び乗りました。ちょっと話が横道に逸れますが、何かの出来事が折よく、あるいは折悪く起こる時、そのようなことに飛び乗ってしまうのですが、神の確かなみ心はイエス様によって示されており、神が、私たち、私をこよなく愛して下さっているという最も確かなことに縋りついて、状況から何かを読み取り、み心を邪推せず、冷静に対処することが大切です。人には、神の前から逃れることは不可能であり、神から与えられた使命から逃れることも不可能であり、人には、神の愛から逃れることは不可能であり、ただ、み心がなるのです。「折良く」とは言ってもそれは不可能な逃亡でした。

 

3、大嵐、船員たちの対応、そして、ヨナ

 「船賃を払って乗り込んだ」と言われていますが、かなりの大金を払ったことでしょう。さあ、ドラが鳴って出航し、「主から逃れようと」タルシシュに向かいます。しかし、大嵐です。私も、かつて使徒パウロが上陸したイタリヤのシラクサで大嵐に立っておれないほどの遭遇したことがあります。穏やかな地中海の一面です。「海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった」。ところが信仰者ヨナは船底でふて寝を決め込んでいます。しかし、異邦人は、「それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ」、現実に対処して最善の働きをして、「積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」のです。キリスト者ではない、この世の人の方がはるかに敬虔であることがあるのです。彼等彼女等の方が、現実に適切に向かい合い、事柄に対処する道を努力することもあるのです。他方、イスラエルの神を信じるヨナは船底で不貞腐れて寝転がっていたのです。結局、この大嵐を引き寄せたのは、だれが悪いのかということになり、籤を引くと見事ヨナに当たります。ヨナは図々しく、良くも言うなという感じですが、「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と告白し、主なる神から逃げてきたことを白状します。

 ここでも、この世の人はしっかりして配慮に満ちています。人身御供のように、「自分を縛って海に放り込め」というヨナの言葉を聞きながらも、何とかヨナを助けようと、「乗組員は船を必死に漕いで、陸に戻そうと」努力します。そして、ついに彼は「主に向かって叫ぶ」のでした。しかし、それも旨くいかず、「神よ、お許し下さい」と言って、ヨナを縛り、海に投げ込みます。

 

4.ヨナの苦悩と祈り、そして、救い

 すると、不思議なことに、2:1にあるように、「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた」のです。嵐の中で溺れずに済みました。しかし、主なる神の前から逃げ出すヨナは下へ下へと向かっています。彼は、ヤッファに下り、さらに下って船に乗りこみ、船の底でふて寝し、さらに、海に投げ込まれ、今や大きな魚の腹の中です。しかし、このどん底に至って彼は主に祈りを捧げたのです。「苦難の中で、わたしが叫ぶと、主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると、わたしの声を聞いてくださった。あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた。潮の流れがわたしを巻き込み、波また波がわたしの上を越えて行く。… 大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。わたしは山々の基まで、地の底まで沈み、地はわたしの上に永久に扉を閉ざす。 しかし、わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった。息絶えようとするとき、わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き、聖なる神殿に達した。偽りの神々に従う者たちが、忠節を捨て去ろうとも、わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある」。「救いは主にこそある」。われわれはヨナのようにどん底に突き落とされます。愛する者の死、病気、厳しい老いること、仕事を失うこと、結婚や家庭の崩壊、離婚などを経験します。しかし、そのような時こそ、祈る者とされ、主なる神が傍らにいますことを知るのです。「主よ、助けて下さい」。そして、聖書は、「救いは、主にこそある」と語ります。主が命じられると、何とその魚はヨナを陸地に吐き出したのです。暗闇から、明るい太陽の下に。

 

5.ヨナの宣教とニネベの悔い改め

 いわば、イエス・キリストの十字架と復活のように、陰府の底から生き返ったようなヨナの宣教にニネベの王も民も驚き主の前に悔い改めたのです。しかし、ヨナはこれを喜べずに、大いに不満です。彼は怒った(4:1)。冗談じゃない。敵国は滅んでしまえばよいと言うのです。さあ、殺せと喚きます。不思議なことです。あれほどの苦難を経験し、大魚の腹から救われ、祈りが聞かれたという経験をしながら、ヨナはニネベが滅びないことが不満なのです。聖書は、これが人間である、これが選びの民の実体である、これが、クリスチャンの姿ではないかと問いかけているのです。ヨナとはわたしのことであり、皆さん、一人一人の信仰者ではないかと問うのです。その自己中心性のゆえに他者が赦され、他者が幸せであることを喜ぶことができないのです。

 

6.神の語り掛け

 ヨナは頭にきて、ニネベの町を見渡すことのできる岡の上にいて成り行きを見ようとします。しかし、灼熱の太陽の下、日差しを遮るものはありません。すると「とうごま」の木が生え、急速に育ってヨナをその葉の陰に隠してくれたのです。ヨナは大喜びです。ところが、今度は虫が食って、翌朝、とうごまの木は枯れてしまいます。そこで、ヨナはまたまた喚き散らします。まさに私たちそのものではないでしょうか。「生きているよりも、死んだ方がましだ」。(4:8)主なる神は言います。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまさえ惜しんでいる。それならが、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろう。特に、そこには抑圧的権力の下で、12万以上の喘ぎ、苦しむ人々、無数の家畜がいるのだから」。

 物語は、このような問い、神の問いかけで終わっています。日本人の99%がノンクリスチャンです。伝道はなかなか伸展しません。それは彼らが悪いのであって、自分の責任ではない。知るものかと私は思ってしまいます。しかし、主なる神は、そのような人たちも大切な人たちであり、彼らの神であると言われるのです。世界祈祷週間が近づいています。福音を分かち合うことのために祈る時です。また、今日は子どもたちの祝福式です。彼らも大いに、一人一人神から愛されていることを心に刻みましょう。「ヨナ」とはヘブライ語で「鳩」を意味しています。地の塩、世の光、そして平和の使者としてのささやかな歩みを大切にしましょう。皆さんの上に主の祝福を祈ります。(松見俊)