1.ファラオの軍隊
ファラオは、イスラエルの人々を解放したことを後悔します。「イスラエルの人々は、このファラオにこそ仕えるべきなのだ。」と考えたのです。ファラオの姿から、罪の誘惑の姿を見ることができます。神様に仕えるのか、それともエジプトの王ファラオに仕えるのか。誘惑は、私たちがもう一度罪の奴隷となることを願って、誘惑の罠を仕掛けてくるのであります。
マタイ6:25、31-34「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」(31)順番として「神の国と神の義を求める」ことが先です。この順番が逆になってしまうとき、何のために食べるのか、何のために飲むのか、何のために生きるのかというところが抜けてしまいます。誘惑は私たちを神様に仕える者から引き離そうとします。神の奴隷ではなく別の何かに仕えるほうがよいと思わせるのです。
2.奴隷で居続けることを望む
11-12節、イスラエルの人々は自由を得ることよりも、奴隷で居続けることを望みます。神様に従って荒野へ出て行っても、そこには食べ物も、飲み物もない。背後からはエジプトの軍団が迫っている。どうすることもできない不安と恐れの中で、イスラエルの民は「神様に仕える」ことから、「エジプト人に仕える」ことを求め始めるのです。不安と恐れの内で、神様に仕えることを投げ捨て、自分たちを痛め苦しめた者に仕えようとさえしていくのです。不安や恐れは、人間の判断力を著しく低下させるのです。
3.夜もすがら起こされた救い 出エジプト記14:19-21
神の御使いと雲の柱はイスラエルの後ろに行き、エジプトとの間に入られたのです。「真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた」(20)この言葉は、別の訳では「雲が闇をもたらし、日没を早め夜の間中両者が近づけなくなった。」と訳されています。新共同訳では、雷でも落ちていたか、また後者では「闇の時」、夜が早まったのかと想像するのです。どちらにせよ、神様はイスラエルとエジプトの間に入られたのです。
21節は、「モーセの十戒」でも有名な場面、海が割れるところです。神様は一晩中かけ、東風を用いて、海を押しかえされたのでした。神様の救いは一瞬の超越的な力によるのではなく、モーセという人間の行為を通して、世界の力「東風」を用いて、一晩中という時間をかけて救いの道を開かれたのです。
4. 歩き出したイスラエル
イスラエルの人々は、神様の御業の中にあって海の中へと進み始めたのです。イスラエルの応答行為です。神様が道を開かれた道をイスラエルが歩き出したということなのです。人間は神様の救いを受け取るという応答をするのです。海の道から引き上げられたイスラエルの人々は、エジプトから完全に解放され、本当の自由を得るのです。ローマの信徒への手紙6:2-11(笠井元)