1: 世界祈祷週間を覚えて
今日の礼拝は、世界祈祷週間としての礼拝を持っています。イエス・キリストは世界の人々を「和解」させるために、この世に来られました。私たちは、世界の平和を祈り求めていきましょう。先ほど女性会のスライドで世界祈祷の説明をしていただきました。現在バプテスト連盟では各地に宣教師を送り出しています。インドネシアに野口日宇満先生、佳奈先生を宣教師として、カンボジアに嶋田和幸先生、薫先生を宣教師として、またシンガポールに伊藤世里恵先生を、ルワンダに佐々木和之先生を、それぞれ派遣しているのです。私たちは先生方の働きを覚え、祈りましょう。今週は、特にこの世界伝道を覚えてお祈りしていきたいと思います。
今日の箇所では「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(26)と言われました。イエス・キリストは私たちのところに来てくださいました。神様はイエス・キリストを通して、世界のすべての人間の一人も外れることなく、誰一人取りこぼすことなく、すべての人間を救い出して下さったのです。すべての者が「キリストに結ばれた神の子」なのです。世界のすべての人が、キリストの愛を喜ぶようになるように祈り続けましょう。
2: 現実に起こっている差別
今日の聖書ではこのように教えます。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(3:26-28)
私たちはキリスト・イエスにおいて一つです。そこではもはやユダヤ人も、ギリシア人もなく、奴隷も自由人な身分の者もなく、男も女もないのです。
このように聖書が教えていることは、逆に言いますと、現実には、ユダヤ人とギリシア人という違い、奴隷と自由人な身分の者という違い、男と女という違いによって、一つとなることはできていなかったと読みとることができるのです。ガラテヤの教会には、人種や身分や性別の違いをもつ様々な人々が教会に来ていたのです。このことは、本来豊かなこと、恵みです。様々な違いを持つ人々が来て、共に礼拝することができる。それは素晴らしいことです。しかし、この時のガラテヤの教会の人々は、その素晴らしさ、違いの恵みを恵みとして、喜んではいなかったのです。
むしろ、お互いの違いを喜ぶのではなく、違いを差別へとつなげていたのでした。つまり、教会の中で、「ギリシア人のくせに」とか、「奴隷が何を言うか」と、差別が起こっていたのです。ガラテヤの教会においては、お互いがイエス・キリストを信じて神の子とされたことは一番大切なことではなかったのです。
このことは現実の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。私の父は沖縄生まれです。父は18才の時に東京の大学に入学するために、沖縄から出てきたのですが、その時はまだパスポートが必要な時代だったようです。祖父もまた沖縄から東京に来て先生をしていたようですが、その時、祖父は沖縄人として、日本人から差別されたのでした。祖父の時代に、差別されるからと苗字を「島袋」から「笠井」に変えたようです。祖父は沖縄人ということで差別を受けたのでした。父も同様です。しかし、そのような差別を受けていた祖父もまた、沖縄本島の人と離島の人で差別をしていたのです。父に離島の人とは付き合わないように教えていたのです。ここには「人間の醜さ」「人間は差別したがる者である」を実感したのでした。
3: キリストを着ている者
わたしたち人間には限界があります。どれほど、隣人を愛そうと思っても、愛せない時があります。人種や身分や性別の違い、その他、能力、肩書きの違いによってもお互いを差別してしまうことがあるのです。これが人間の弱さ、限界でしょう。しかし、神様は、「そのままでよい」「弱いのだから、しかたがない」とは言われないのです。
そのような人間に聖書はこのように語るのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(26-27)
聖書は、「キリストを着ている」と言います。イエス・キリストは神でありながらも人間となられました。そして人間の中でも、特に、差別を受けている者、病人、徴税人、罪人と共に生きて、ユダヤ人として生まれながらもサマリア人と関わられたのです。
神の子イエス・キリストは、自分とはすべてが違う人間を愛されたのです。神様は自らがふんぞり返って、人間を罪人と断罪はしなかったのです。人間が人間同士で差別する中、差別される者を愛し、差別してしまう人間の罪の中にきてくださったのです。イエス様は、差別されて生きる者、孤独な者の隣に来てくださったのです。そして、キリストの最大の愛の業として十字架があります。十字架は神様が命をかけて人間を愛された出来事なのです。イエス・キリストは命をかけて、神様と人間の間の隔てを打ち砕き、また人間同士の、身分や性別、人種の違いによる差別、隔てを打ち砕かれた出来事なのです。
聖書は、「あなたがたはこのキリストを着ている」と教えるのです。身分や性別、人種の違いはあるかもしれない。しかし、あなたがたはその上に「キリストを着ている」のだと教えます。すべての者が、この「キリスト」という共通項「神様に愛されている者」として繋がっている。そのように、繋がることができると教えているのです。
4: キリストにおいて一つ
聖書は言います。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(28) 私たちは、キリストを着ていること、つまり、キリストの愛に包まれることによって、お互いが繋がり、一つとされていくのです。
人間はお互いの違いをなくすことはできません。ユダヤ人がユダヤ人であることをやめ、ギリシア人がギリシア人であることをやめることはできません。また奴隷や自由な身分の者であることをやめることも、男性であること女性であることをやめてしまい、なくしてしまうことはできないのです。そしてそのようなことを神様は望まれてはいないのです。イエス・キリストの愛に包まれる者にとって、違いは喜びであり、恵みとなるのです。
私たち人間は弱く、限界もある者です。しかし、イエス・キリストは、私たち人間の弱さも、その限界も、十字架という愛で、打ち砕いてくださったのです。このキリストを着ましょう。キリストを着るということは、信仰をもつことによって始まります。そして信仰を持つということは、この神様によって愛されていることを信じるということです。キリストによる神様の愛を信じましょう。そしてキリストを着る者とされていきたいと思います。
神様は、人間がお互いを愛し、尊重し、共に生きることを願っておられます。私たちは、この神様の愛をいただきましょう。そして伝えていきましょう。この世に、御国が、神の愛による平和が来ますように、願い、祈り、働いていきましょう。(笠井元)