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2017.12.3 「主を待ち望む」 (全文) イザヤ書8:23b-9:6

 今日からアドベント・待降節が始まります。アドベントは、イエス・キリストの誕生を待つときです。私たちは、今日、このアドベントの時に、神様がイエス・キリストという人となってこの世に来られたという恵みを共に期待し、待ち、心を整えていきたいと思います。

 

1:  苦しみの現実

 今日はイザヤ書から見ていきたいと思います。 預言者イザヤは紀元前8世紀に働いた預言者です。イエス様が生まれる700年以上も前です。今日の箇所は、その中で、イザヤがメシア、救い主の誕生を預言した言葉でした。イエス様の誕生は、このイザヤの時、700年も前から預言し、待ち続けられてきたのです。紀元前8世紀のイザヤがいた時代、イスラエルは厳しい状況にありました。23節に「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けた」とあるように、イザヤの活躍したこの時代は、アッシリア帝国によって、苦しめられていた時代でもあったのです。ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤはアッシリアによって攻撃を受けて、まさに「辱め」を受けていたのです。

 21節からは「8:21 この地で、彼らは苦しみ、飢えてさまよう。民は飢えて憤り、顔を天に向けて王と神を呪う。8:22 地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。 8:23 今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。」(21-23)と言われます。「飢え」「憤り」「苦難と闇」「暗黒と苦悩」「暗闇と追放」。そこから逃れることはできないと言うのです。

 ガリラヤの人々は、武器もなく、無抵抗のうちに、アッシリアの軍隊に侵略されたのでした。人々は、飢え、苦しんだのです。そして、人々は「王と神を呪った」のでした。王は、アッシリアの王でしょう。そして同時に、人々は神様を呪ったのです。それほど苦しかった、それほど生きる希望を失っていたのです。

 

 皆さんは、神様を呪いたくなるほどの苦しみに出会ったことがあるでしょうか。人生において少なくても、一度や二度は、神様を呪いたいと思うほどの、苦しみの時に出会うの特があるのではないでしょうか。

 わたしがこれまで経験してきた中で、神様を呪いたくなるほどの出来事は、やはり、死に出会ったときに、一番苦しく、神様に「なぜですか」と言い、そして呪ってしまいたくなるほど、つらい思いになりました。いつもお世話になっていた人。健康に気を付け、栄養士でもあった人が病気になって召された時。また若くして召された友人。祖父、祖母。わたしの父や母は生きていますが、実際に家族、父、母、兄弟を失った人の苦しみは、とてつもない痛みであると思うのです。そして、そのような神様を呪いたくなるほどの苦しみの中で、信仰を持ち続けるにはどのようにすればよいのでしょうか。

 アッシリアによって苦しめられていた、イスラエルの人々の思いは「神様は救いの手を差し伸べてくださるのだろうか」「それともこのままずっと苦しみつづけるのだろうか」「神様は、私たちを見放されるのだろうか」。そのような希望と、絶望が入り混じった、不安の中に生きていたのです。

 今日のイザヤによる預言は、そのようなイスラエルの人々に、「神様は必ず救い出してくださる」と教えたのです。「神様は私たちを見捨てることはない。たとえ今、どれほど苦しくても、必ず神様は救いの手を差し伸べてくださる」と教えたのでした。

 

2:  待つこと

 現在、東福岡教会の附属の幼稚園、東福岡幼稚園では、イエス様の誕生劇を行っています。幼稚園のクリスマスは少し早く、今週の土曜日になります。皆さん、幼稚園の子ども達がクリスマスを心から喜ぶことができるように、また保護者の方々が、この時を通して、イエス様に出会うことができるように、ぜひお祈りください。わたしが小学生のころには、教会でイエス様の降誕劇をしていました。小さいときの記憶としてよく覚えている一つに、劇の時のセリフがあります。羊飼いのセリフですが、「静かなよるだね」「とても静かだ」「今日は、空がとてもきれいだ」「あなたの心もあれくらいきれいになるといいのにね」というセリフがありました。このセリフは小さいながらも、私たち人間の心は本当は汚れていて、クリスマスの時に心がきれいになることを願っている言葉として、よく覚えています。また、他にも「救い主は、お父さんのお父さんの、お父さんのお父さん。そのまたお父さんのずっとずっと昔から、待っているんだ」というセリフがありました。この言葉からは、「救い主はほんとうに長い時間待たれていた」と同時に、「待っていて見ることができなかった人は、いったいどんな気持ちだったのだろう」「待つだけで死んでしまった人は、いつか来られる救い主をどのように思っていたのだろう」と思っていました。

 小さいころは、「待ち続けること」になにか大きな意味があるとは思うことはできませんでした。むしろ、嬉しいことを待っているときは、「早く来ないか」、「待ちたくない」と思うものだと思います。しかし、「待つこと」は「待つこと」事態が、実はとても素敵なことだと思うのです。何かを待っているとき、そこには期待があり、希望があるのです。

 子どもたちはクリスマスにはサンタクロースを待っているでしょう。サンタクロースを待つときは、とてもわくわくして、喜んだ気持ちで生活することができるのではないでしょうか。そしてそれが救い主の到来を待つことだとすれば、それは喜びで満たされて、生きる希望をいただく、その基となるのではないでしょか。これから救い主が来られるのです。私たちは未来に希望を持つとき、そのときに、未来だけではなく、今生きる、現在にも喜びと勇気と力をもって生きることができるのです。将来の喜びは、現実の苦難にも、向かい合い、生きる勇気を与えます。そのような意味で、神様が救い出してくださるという思いは、いつか救われる・・・という未来だけではなく、今、神様が共にいてくださることにつながるのです。いずれ救い主が来られるという希望は、すでにそこに、救いだしてくださるという希望を受け取っているのです。神様を信じて、神様が喜びを与えてくださることを待ち続けるとき、そこには確固たる喜びがあるのです。

 

3:  平和の主の誕生

 9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。9:6 ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。(9:5-6)

 イザヤは「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(5)と呼ばれる方が生まれるだろうと教えたのです。この言葉は、実際に当時、王様として働いた、ヒゼキア王のことを指しているのではないかとも言われていました。しかし、今回ここでは、実際のだれかというのではなく、新しい指導者、平和の君が与えられるという希望が語られていると読みたいと思います。誰かと決まった救い主ではなく、もっと大きな希望につながる言葉、救いの出来事を教えているのです。神様はどのような困難からも必ず救い出してくださる。そしてそのために神様は救いの出来事として、力ある方を送ってくださると、神様の救いを信じる言葉が語られたのです。

 

 このときアッシリアの軍事力によって抑圧されていたイスラエルの人々は、この言葉からは、アッシリアに対抗する軍事力を持って、アッシリアを打ち砕く方として、救い主が来られると信じたのです。そしてそれは、イエス様が来られた時の弟子たちでも同じでした。イエス様の時代はローマ帝国によって抑圧されていました。人々は、ローマからの解放、そしてアッシリアからの解放をしてくださる、もっともっと力強いかたが来てくださると願い求めていたのです。しかし、実際に、この世に救い主として、来られた方は、小さな馬小屋で生まれた方でした。その生きた道は、子どもや病人を迎え入れ、罪人とされる人々と共に生きた道でした。決してきらびやかで力ある指導者とは言えない方で、最後には十字架という無残な姿で死んで行かれたのでした。これが救い主イエス・キリストなのです。主イエス・キリストは、この世的な力、軍事力や富によって、この世に来て、人間を支配されはしなかったのです。

 イエス・キリストは神の子でありながらも、自ら小さき者、弱き者として、この世に来られたのです。そして、小さき者、弱き者、そして罪人とされる者の隣に来てくださったのです。

 この力なき方としてこの世に来られた方、イエス・キリストこそ、平和の君、本当の救い主としてこの世に来られた方なのです。

 

4:  わたしたちのために

 5節ではこのように言いました。「9:5 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」

 ここでは「わたしたちのため」と二度繰り返して言われます。イエス・キリストは「わたしたちのため」に生まれられたのです。それはイエス・キリストが、私という人と共に生きてくださり、「わたし」ではなく「わたしたち」となってくださったということでもあります。主イエス・キリストによる救い。それは神が人間と共に生きる者となられたということです。

 先ほども言いましたが、人生で苦しいときの出来事として、その大きな出来事の一つ、「死」に向き合う時があると思います。「死」は苦しい出来事です。同時に、それは自分の心に孤独、無力さを感じているということでもあるのです。いつも一緒にいてくれた家族、友人が召されていく。そのとき、私たちは悲しみと共に、孤独を感じているのです。心と心が通じ合っていて、一緒に生きてきたはずの人がいなくなってしまう。自分は誰と生きていけばよいのだろう。そして自分はなんて無力なのかと。人間には決してどうすることもできないこと、それが死です。これから誰と一緒に生きるのだろうと、無力感と孤独を感じ、心に穴が開いてしまったような思いになるのです。

 そして、それは決して、「死」に向き合う時だけではないのです。生きている中で、自分が孤独であり、無力であることを感じる時、だれも自分を理解してくれてはいないと思う時、自分にはどうすることもできないという壁にぶつかったとき、そこには大きな苦しみがあり、目の前は真っ暗で絶望的な思いにさせられるのです。「孤独」は、私たちの心を閉ざし、暗闇へと突き落とすのです。イエス・キリストが与えてくださった救い。それは、財産、能力、権威などではなく、ただ共にいること、「わたし」と共にいて「わたしたち」にしてくださったのです。これがイエス・キリストによる神様の愛です。神様はどのような時にあっても、私たちを見捨てることはないのです。どのような時にも、私たちと共にいて、寄り添い、生きていてくださるのです。これが主の福音です。

 

 そして、それは、私たち自身「わたし」から「わたしたち」となることに続いていくのです。神様はイエス・キリストをこの世に送って下さいました。そしてこのイエス・キリストを通して、人間は「わたしたち」として、「共に生きる」力を与えられているのです。

 主なる方が私たちの間にきてくださり、「わたし」と「わたし」をつないでくださり「わたしたち」としてくださるのです。神様は私たちの心に新しい命を与えてくださったのです。それはイエス・キリストであり、神様の愛です。私たちは、この神様の愛を知る時、心に神様の愛をいただくのです。私たちは、心のうちに神様の愛をいただいた者として、どのように生きることができるのか、今一度、考えていきたいと思うのです。

 今、わたしたちはアドベントの時を迎えています。このアドベントのときに、私たちは、主がこの世にきてくださることを待ち望みたいと思います。そして、主がこの世に来てくださったことを、自分自身がどのように受け、自分がどのように生きることができるのか、もう一度問い直してみましょう。私たちは一人ではない、必ず隣に主がきてくださるのです。この神様の愛を信じて、待ち望み、新たな希望をもって、このアドベントの時を過ごしていきましょう。(笠井元)