今日からアドベント・待降節です。神様がイエス・キリストという人となってこの世に来られたという恵みを共に期待しつつ、心を整えていきましょう。
1: 苦しみの現実
預言者イザヤは紀元前8世紀に働いた預言者です。このときイスラエルは厳しい状況にありました。ゼブルン、ナフタリはアッシリアによって攻撃を受けて、まさに「辱め」を受けていたのです。ガリラヤの人々は武器もなく、無抵抗のうちにアッシリアの軍隊に侵略されたのでした。人々は「王と神を呪った」のでした。イザヤの預言はイスラエルの人々に「神様は私たちを見捨てることはない。たとえ今、どれほど苦しくても、必ずその救いの手を差し伸べてくださる」と教えたのでした。
2: 待つこと
「待つこと」はとても素敵なことです。何かを待っているとき、期待があり、希望があるのです。救い主の到来を待つこと、それは喜びで満たされて、生きる希望をいただく出来事ではないでしょうか。私たちは未来に希望を持つとき、未来だけではなく、現在にも喜びと勇気と力をもって生きることができます。将来の喜びは、現実の苦難にも向かい合う勇気を与えます。
3: 平和の主の誕生
イザヤは「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」(5)と呼ばれる方が生まれるだろうと教えました。アッシリアの軍事力によって抑圧されていたイスラエルの人々は、軍事力を持って、アッシリアを打ち砕く方として、救い主が来られると思いました。しかし、実際に、この世に救い主として来られた方は子どもや病人を迎え入れ、罪人とされる人々と共に生きたのです。最後には十字架という無残な姿で死んで行かれたのでした。これが救い主イエス・キリストです。イエス・キリストは神の子でありながらも自ら小さき者としてこの世に来られたのです。
4: わたしたちのために
5節では「わたしたちのため」と二度繰り返して言われます。イエス・キリストは、私という人と共に生きてくださり、「わたし」ではなく「わたしたち」となってくださったのです。神様はどのような時にあっても、私たちを見捨てることはなく、共にいて、寄り添い生きていてくださるのです。
イエス・キリストを通して人間は「わたしたち」として、「共に生きる」力を与えられているのです。主なる方が私たちの間にきてくださり、「わたし」と「わたし」をつないでくださり「わたしたち」としてくださるのです。神様の愛を信じて、待ち望み、新たな希望をもって、このアドベントの時を過ごしていきましょう。(笠井元)