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2017.12.10 「低みに降る神」 (全文) フィリピの信徒への手紙2:1-11

 キリスト教は歌う宗教、信仰です。待降節の第二主日。今日も賛美歌を歌っています。初代の教会はどのような賛美歌を礼拝の中で歌ったのでしょうか。エフェソ5:19には「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」とありますが、詩編とは、ヘブライ語聖書の「詩編」を余り抑揚のない旋律で歌うことを意味していたようです。また、「霊的な歌」とは『新生讃美歌』にあるような信仰の喜びを歌う賛美歌あるいは即興の賛美歌を指しているようです。そして、たぶん、「賛歌」とは自分の信仰経験というより、神が何をして下さったかの出来事を歌ったものであると思われます。このようなことを言いましたのは、フィリピ2:6-11には「カルメン キリスティ」(キリスト賛歌)と呼ばれている当時の参加が引用されていると考えられるからです。ギリシヤ語で読みますと実に均整のとれた美しいかたちをしており、第一節は神の子キリストの低みに降る出来事、第二節は、このキリストを父なる神が、復活と昇天によって高みへと引き上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったことが謳われています。ただ一か所だけ形が崩れており、それは8節の後半の「それも十字架に死に至るまで」の個所です。当時のキリスト賛歌にパウロが加筆した部分であると理解されています。では、待降節の第二主日、このキリスト賛歌を味わってみましょう。

 

1.「かたち」の意味

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり」と歌われています。ここで「身分」という翻訳は良くありません。口語訳では「かたち」と翻訳されており、このほうが良いでしょう。「かたち」と翻訳された「モルフェー」とは本質に対応したそのときどきの「かたち」を意味しています。蝶々は蛹から羽化しますが、蛹になる前は青虫です。青虫の前は卵です。卵、青虫、蛹、蝶々とそれぞれのかたちは異なりますが、一貫して蝶なのです。それを「身分」と言ったらちょっと可笑しいでしょう。多分、私も、皆さんも、10年前の自分と、20年前の自分と、30年前の自分と同じ自分でありながら、身長が伸びたり、多少縮んだり、腰が曲がったりします。また、今の小学生たちも十年経てば足の大きさも大きくなり、背丈ものびるでしょう。同じ「かたち」ということでは、もう一つ別の「エイコーン」という言葉があります。神は人間をご自分と同じような「かたち」に創造されたとあり、イエス・キリストこそまことの人間として「神のかたち」であると言われます。目に見えない神を形に表現するということで、「キリストは神のかたち」「神の似姿」であると言われます。IIコリント4:4「神の似姿であるキリスト」、口語訳では「神のかたち」と翻訳せれていました。これは印鑑とその印影のようなもので、ハンコやスタンプを押すとそのかたちが映し出されます。両方とも「かたち」と翻訳すると紛らわしいので、今日読んでいる箇所では「身分」と翻訳しているのですが、やはり、ちょっと可笑しいのです。ものの本質がそのときどきの「かたち」をとり、しかも、本質は変わらない、そのようなものが「モルフェー」=「かたち」ということです。

 

2.自分を無にして

 このキリスト賛歌では「神のかたち」と「僕のかたち」が対比されています。「神のかたち」と「人のかたち」の対比ではなく、神のかたち、つまり、「支配すること」と「僕のかたち」つまり、「仕えて生きること」が対比されています。先ほど言いましたように、神のみ子キリストは神の本質をもって父なる神の下に、父なる神と共に、父なる神の中に存在していたのですが、その本質を、支配するというかたちに固執しようとはせず、貧しい大工の子イエスとして、この地上に来られたというのです。それはまさに、ご自分を無にすること、謙虚な姿でした。ギリシヤ語では、「ケノー」という言葉で、「空っぽにすること」to empty, make emptyと翻訳されます。Iコリント1:17では「しかも、キリストの十字架が空しいものになってしまわぬように」と言われ、「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり」と言われ、空っぽになってという基礎的意味から、「空しい」「無意味な」という意味になっています。イエス・キリストはご自身を空っぽにされて、「僕のかたち」となる、ある意味、その空になった領域に私たち一人一人を招いて下さっているようです。「この私の中にあなたを受け入れる余地がありますよ。おいで下さい」と呼び掛けているようです。初代のキリスト者たちは、心から感謝してこのようなキリスト賛歌を歌っていたのです。今日は、礼拝の招きの言葉でIIコリント8:9を読みました。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」というみ言葉に耳を傾けました。「かえって自分を無にして、僕のかたちになられた」。エケノーセン、過去の一度限りの事実を現す「第一過去形」です。私たちも自分自身の生い立ち、人生をこの神のみ子のへりくだりの物語の中に位置づけたいものです。

 

3.低みに降る神

 今日の説教の題を「低みに降る神」としました。このキリスト賛歌は、さらに、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と続いています。イエス・キリストは人となられた神であります。問題の多いこの世界、問題の多い人間。人間として生きることは並大抵なものではありません。皆さんはその苦労をお判りでしょう。この苦労は人間でなければわかりません。そのため、神のみ子は、「僕のかたち」を取られただけではなく、まさに、人となられたのでした。これがクリスマスの出来事です。イエス・キリストはまさに、低みに降る神そのものです。「それも十字架の死に至るまで」と重ねて歌われています。この部分だけがパウロが付け加えた部分です。人々に見擦れられ、弟子たちに裏切られ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですが」(マルコ15:34)と絶叫されたあの十字架の出来事は、私たちの孤独、悲惨、苦悩を味わい尽くされるため、最も低い処に神ご自身が降るためだったのです。私たちの下にはなにがあるでしょうか。大きな口を開いた陰府の世界でしょうか?そうではありません。そこにイエス・キリストがおられるのです。ですから私たちは絶望しません。絶望する必要もありません。そこで叫ばれるイエス様がおられ、私たちは孤独ではありえないからです。もし、今日の不条理なこの世界に神がおられるとすれば、私たちと私たちの世のどん底に、低くみに降る神として、あの十字架につけられたナザレのイエスにご自身を重ねられた神がおられるのです。「死に至るまで従順であられた」で歌としてはすっきりしているのですが、パウロは、「十字架の死に至るまでも」という言葉を付け加えざるを得なかったのでした。

 

4.他者を尊重する

 実はこのキリスト賛歌は、私たちはどう生きるべきかという「倫理の文脈に」引用されています。「そこで、あなたがたに幾らでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」と勧められています。私たちには模範を示して下さったイエス様がおられるのです。そしてそのイエス様から愛され、大切にされているものとしてイエス様の模範に従うように教えられています。皆さんは、この戒めをどのように思うでしょうか?私は「ああ、痛!」という経験があります。今はほとんどしませんが若い頃はよく夫婦の言い争い、夫婦喧嘩をしたものです。る時、机のこちらの私と向こうの妻と言い争いをしていました。言い争いですから自分が正しいと思っていましたし、今でも自分が正しいと思います。多分、彼女もそう思っているはずです。内容は全く忘れてしまいました。しかし、間が悪いと言うか、妻が座っていた右肩上に「日めくりのみ言葉カレンダー」が架かっておりまして、それが先ほどの聖書箇所でした。口語訳でしたので、「へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」。いやあ、都合の悪い箇所だなあと思いました。「互いに人を自分よりすぐれた者としなさい。」「なんだよ、これ」っていう感じです。しかし、ここで自分の考えを通して、聖書の言葉を採用しなければ牧師として、キリスト者として生きてはいけません。仲直りをしたがどうか記憶にありませんが、こちらは口を閉ざしたことは事実です。そしてその時考えたことは、「クリスチャンで良かった」ということでした。「このように気の強い、本当は、優しいのですが、でも、荒っぽい私が自分の気持ちや判断だけで生きたら、大変なことになる」と思ったのです。このことは鮮明に記憶しています。都合の悪いことにというか、都合の良いことにというか、私たちには、へりくだって生きられた主イエスという模範があり、このお方を毎週賛美しているのです。こうして、具体的戒めには、イエス・キリストの愛が、赦しが先だっているのです。

 

5.自由へと高みに引き上げられた人間として

 先ほどは、いわゆるキリスト賛歌の途中で話題が逸れてしまいました。賛歌の第二節には、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。とあります。第二節は復活と昇天、そして天におけるイエス・キリストの即位の場面、上に上にと引き上げられたキリストについて歌っています。この低きに降る神のみ子の運動と、天の高みに引き上げられているキリストが見事な対比で歌われています。私たちは、イエス様と共に、自由の高みへと引き上げられ、罪が赦され、復活の栄光を約束されている者たちです。私たちは、そのような自由人として生きているでしょうか? いまだに、この世の苦しみ、悩みに捉われ、この世の栄華、成功を夢見て不自由な生き方をしているでしょうか? このように約束され、主イエスのみ名が、この世のあらゆる名に勝ることを信じているなら、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。これくらいのことならできるのではないでしょうか?応答賛美歌を歌って主イエス様のみ名を讃えましょう。(松見俊)